写真の古文書は『魯王勅書』と呼ばれているもので、徳川ミュージアムに所蔵されています(一般非公開)。この勅書は南明の監国魯王が海外貿易に注力していた朱舜水を自分の元へ招聘させ、救国の支えをしてほしいと願ったものでした。朱舜水にとっては誉れ高い勅書であり、日本渡来後も終生肌身離さず持ち続け、心の支えとしていました。
彼の死後、『魯王勅書』は徳川光圀に預けられ、水戸徳川家によって管理されてきましたが、幕末や太平洋戦争の混乱期にその行方が不明になってしまいます。しかし近年、日本、中国、台湾の合同研究チームが徳川ミュージアムの膨大な書庫から発見し、大きなニュースになりました。詳しくは下の記事をお読みください。
そんな『魯王勅書』を水戸市在住で漢文ファンの若水(じゃくすい)さんが、なんと独力で文書の書き下しに挑戦し、日本語訳までやってくれました。不明な箇所は台湾在住の先生などを頼りながら仕上げたそうです。ぜひ水戸に伝わる秘宝について理解を深めていただき、朱舜水の波乱万丈の人生に思いを馳せてみてください。
『明魯王勅書』
※「公益財団法人 徳川ミュージアム 収蔵品データベース」の下記HPを参照した
https://jmapps.ne.jp/tokugawa/det.html?data_id=12
※勅書の漢字の推定のため、「異郷と家郷―魯王と朱舜水の物語」(楊儒賓・田世民訳『季刊日本思想史第八十一号』所収、ぺりかん社、2014)を参照した
原文
※原文に句読点を付した。原文の字体に極力倣いつつ、入力の便宜上、異体字に代えた箇所あり。擡頭(たいとう)・改行は原文に倣う。擡頭とは敬意を表すために改行して、数文字高いところから書き始める漢文の特徴のこと。
監國魯王勅諭貢生朱之瑜。昔宋相陳宜
中託諭占城、去而不返。背君茍免、史氏
譏之。蓋時雖不可為、明聖賢大道者、當
盡回天衡命之志。若恝然遠去、天下事、
伊誰任乎。予國家運丁陽九、線脈猶存、
重光可待。況
祖宗功徳不冺、人心中興、局面應遠過于晋
宋。且今陜蜀黔楚悉入版圖、西粤久尊
正朔、即閩粤江浙、亦正在紛紜舉動間、
非若景炎之代勢處其窮。故宜中不復、
亦不聞有命、往召其還也。爾矯矯不折、
遠避忘家、陽武之椎、尚堪再試、終軍之
請、豈竟忘情。予夢寐求賢、延佇以俟。茲
特耑勅召爾、可即言旋前来佐予。恢興
事業、當資爾節義文章。毋安幸免濡滞
他邦、欽哉特勅監國魯玖年參月 日
書き下し文
監國魯王は貢生の朱之瑜に勅諭す。昔、宋相の陳宜中は占城において諭に託し、去りて返らず。君に背き苟(かりそめ)に免るも、史氏は之を譏る。蓋し時に為すべからずと雖も、聖賢の大道を明かさんとする者は、當に回天衡命の志を盡くすべし。若し恝然(かつぜん)としてとして遠く去らば、天下の事、伊誰(いすい)に任ぜんか。予が國家の運は陽九に丁すも、線脈は猶お存し、重光(ちょうこう)も待つべし。
況んや祖宗の功徳は冺(つ)きず、人心は中興し、局面は應に遠く晋宋に過ぐべし。且つ今、陜蜀黔(けん)楚は悉く版圖に入り、西粤(えつ)は久しく正朔を尊び、即ち閩(びん)粤江浙、亦た正に紛紜として舉動する間に在り、景炎の代に勢の其の窮りに處(お)るがごときに非ず。故に宜中は復せずとも、亦た命の往きて其の還を召さんとする有るを聞かざるなり。爾は矯矯として折れず、遠く避けて家を忘るるも、陽武の椎、尚お再び試みるに堪え、終軍の請、豈に竟に情を忘れんや。予、夢寐(むび)に賢を求め、延佇して以て俟(ま)つ。茲(ここ)に特に耑(もっぱ)ら勅して爾を召す、即ち言(ここ)に旋(めぐ)り前に来たり予を佐(たす)くべし。恢興の事業は當に爾の節義文章に資すべし。安んじて幸いに免かれ、他邦に濡滞(じゅたい)する毋かれ、欽(つつし)めや、特に勅す監國魯玖年參月 日
注釈
※監國魯王
朱以海(1618~1662)のこと。明太祖(朱元璋)の第十子の魯荒王(朱檀)の子孫にして、魯肅王(朱壽鏞)の子。1645年に弘光帝(1607~1646)が俘虜となった後、「監國」を称し、1646年を「監國魯」元年とした。
※貢生
科挙の院試に合格し、國子監に入学を許された学生。
※朱之瑜(1600~1682)
朱舜水のこと。字は魯璵、「舜水」の号を用いたのは日本渡航後、光圀に対面してから。
※陳宜中託諭占城
「陳宜中」は南宋の端宗(趙昰)(在位:1269~1278)の左丞相。皇帝を奉じて占城(べトナム)で宋の再興を企図したが、果たせないまま復命せず、暹(タイ)で没した。
『宋史』巻四百十八 列伝第一百七十七
益王立、復以為左丞相。井澳之敗、宜中欲奉王走占城、乃先如占城諭意、度事不可為、遂不反。二王累使召之、終不至。至元十九年、大軍伐占城、宜中走暹、後没於暹。
※史氏
史官。
※回天
難局を挽回して勢力を恢復すること。
※衡命
国の非常時において、君命の可否を推し量って遂行すること。
『史記』巻六二 管晏伝
國有道、即順命。無道、即衡命。
※伊誰
「誰」と同義。
『詩経』小雅 何人斯
伊誰雲従。維暴之雲。
※丁
遭遇すること。
※陽九
厄運。
※重光
国家を再興すること。
※祖宗
祖先に対する尊称。
※冺
尽きること。
※局面應遠過于晋宋
異民族によって危急存亡に瀕した東晋・南宋より、現時点での魯王政権の局面は遙かに良いということ。
※陜蜀黔楚
「陜」は現在の河南省三門峡市陝州区、「蜀」は現在の四川省、「黔」は現在の貴州省、「楚」は現在の湖北省と湖南省を広く指す。
※粤
現在の広東省と広西省。「西粤」は広西省を指す。
※久尊正朔
「正朔」は暦のこと。魯王政権を久しく奉じてきた、という意味。
※閩粤江浙
「閩」は現在の福建省、「粤」は現在の広東省、「江」は現在の江蘇省、「浙」は現在の浙江省。
※非若景炎之代勢處其窮
「景炎」(1276~1278)は南宋最後の元号で、南宋の勢力が窮まった情勢を指す。
※矯矯
武勇に秀でた様。
『詩経』魯頌 泮水
矯矯虎臣、在泮献馘。
※陽武之椎
張良が博浪沙で秦の始皇帝を鉄椎で暗殺しようとした故事を指す。博浪沙は秦・漢期には陽武県と称され、現在の河南省新郷市原陽県内にある。
『史記』巻五十五 留侯世家
「得力士、為鐵椎重百二十斤。秦皇帝東游、良與客狙擊秦皇帝博浪沙中、誤中副車」
※終軍之請
前漢の終軍が、漢に帰属するよう南越を説得する任務を自ら皇帝に願い出た故事を指す。
『漢書』巻六十四下 嚴朱吾丘主父徐嚴終王賈伝 第三十四下
軍自請、願受長纓、必羈南越王而致之闕下。軍遂往説越王、越王聴許、請挙國內属。
※夢寐
夢の中。
※耑
特に。「専」と同義。
※可即言旋前来佐予
「言」は語気助詞で無義。
『詩経』邶風 柏舟
静言思之、不能奮飛。
※濡滞
ぐずぐず遅滞すること。
※欽
皇帝に対する敬意を表す語。
※監國魯玖年參月
「玖」は「九」の代用字。「監國魯九年三月」は1653年3月。
日本語訳
明の魯王の勅書
監國魯王は、貢生の朱之瑜に勅を下す。昔、宋の宰相の陳宜中は、勅命に託けて占城に赴き、戻らなかった。君に背くことで当座の難を免れたが、(後世の)史官はこれを譏った。時勢として(南宋の復興を)為し得ざるとしても、聖賢の大道を明らかにせんとする者は、天下の趨勢を挽回し、君命を果たす志を尽くすべきである。もし(聖賢の大道を明らかにせんとする者が)冷淡な態度で遠く逃れ去ってしまえば、天下の事は、一体誰に任せれば良いというのか。
予の国家の命運は危急に瀕しているが、なお命脈を保っており、復興も期待できる。ましてや、祖宗の功徳が滅びず、人心も再興し、(現在の)局面は東晋・南宋より遥かに良い。しかも、今や陜・蜀・黔・楚は悉く我らの版図に帰し、西奧も久しく(魯王政権の)暦を奉じており、閩・粤・浙・江もまさに続々と挙動せんとしており、(南宋の)景炎の代に、国勢が窮まった情勢とは様相を異にしている。故に、(現在は)陳宜中(のような不忠者)は戻って来ないし、(彼のような不忠者に)帰還を促す使者を送り、勅を下すことも聞かない。
汝は勇敢にして不屈であり、遠くに逃れて家を忘れているが、(張良が用いた)陽武の鉄椎を、今再び試みることができようし、終軍の請願の心を、どうして忘れることができようか。予は夢の中でも賢者を求め、心待ちにしている。
ここに特別に勅を下して汝を召すので、すぐに戻って来て、予を補佐するべし。復興の事業は、汝の節義・文章に資するはずである。安穏として当座の難を免れ、異邦に遅滞するなかれ。(以上のように)畏れ多くも特に勅を下す。監国魯九年三月 某日
いかがだったでしょうか。誰だって人から信頼されれば嬉しいもの。それが自分が信奉する監国陛下からここまで頼りにされたら、異邦の地にあってもすぐに駆け付けたくなるのも理解できます。こうした秘宝が水戸の地に残されていることをぜひ知っていただければ幸いです。