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【朱舜水】『魯王勅書』を巡る時を越えたドラマ
現在のアモイのビーチ

今回は監国魯王と朱舜水、二人の絆の物語。
そして時を越えて、現代の日本にまでつながる壮大なドラマです。

病にかかり吐血が始まる

1651年、安南(ベトナム)に旅立った朱舜水(52歳)。このとき中国では8月に四明山が清軍に攻撃され王翊が戦死。9月には舟山が陥落し、脱出した魯王はアモイ(現福建省アモイ市)の鄭成功をたよります。

記録に残っている朱舜水の足取りを見ていくと、以降は安南と長崎の行き来はしていますが、中国にはしばらく戻っていません。もしかしたら、舟山が陥落した情報を寄港先で入手し、危険を回避するために中国へ戻らないようにしたのかもしれません。いずれにしても王翊と魯王の安否が気になって仕方がなかったはずです。

しかし、時が経過し1654年(55歳)のときにはすでに王翊の死を知っており、中秋節に彼を祭る文が残っています。「忠烈の知友」を亡くした喪失感は、さぞかし朱舜水の心身を傷めたに違いありません。そうでなくても船の旅や、慣れないベトナムや日本の気候で満身創痍だったはず。ついにこの年から病にかかり、吐血が激しくなったことも述べています。

それでも病苦と戦いながら、反清復明を諦めずに前進する精神力と実践力には、脱帽するしかありません。

魯王、賢者を求める勅書を下す

1654年、アモイにいた魯王は朱舜水に宛てて、「余の下に戻って来て、ともに働いてほしい」という内容の勅書を出します。

「予は夢でも賢者を求め、首を長くして待ちわびている。ここに特に短い勅(みことのり)をして尓(なんじ)を召す。命令通りに事をすすめ、予を補佐せよ。明朝恢復の事業は、当然、尓の節義や文章に資するであろう。幸いにのがれて異国にとどまることなかれ。つつしめや、特に勅す。」

文面からは朱舜水への信頼と、早く戻って補佐してほしいという切実な気持ちが伝わってきます。とはいえ、当の朱舜水は異国にいるので、どう届けたものか、魯王も困ったことでしょう。
「一体、今はどこにいるのやら。日本なのか、ベトナムなのか?」。
とりあえず、日本行きの船に勅書を託しました。

勅書に感動し、馳せ参じる覚悟を決める

魯王の読みははずれ、朱舜水は長くベトナムに滞在していました。紆余曲折を経て1657年(58歳)、長崎からベトナムに到着した日本船によって、ようやく『魯王勅書』が朱舜水のもとに届けられました。勅書を読んだ朱舜水は感動で胸がいっぱいになります。

親友の王翊は戦死してしまいましたが、魯王が健在であることに安堵したことでしょう。しかも、その魯王が自分の力を必要としている。この勅に応じない理由があろうか。否、これまで数多くの招聘を固辞し続けてきたが、今こそ魯王の下に駆け付け、己の力を捧げる時機だ。朱舜水は、このときの気持ちを『監国魯王にたてまつる謝恩の奏疏(そうそ)』という文書に記しています。

「星夜、処士の巾衣をはじめてつくり、謹んで十六という吉日を択び、さらにあえて公所で礼を行なわなかった。自宅に恭しく香炉机を設けて読み、頭を叩きつけて謝恩し、これを遵守せんことを誓う。」

彼の心は、病も気にならないほど強い気持ちに溢れていました。「さあ行こう。魯王がいらっしゃるアモイに!」。生涯最高ともいえる喜びの中で、旅装を整えていた朱舜水。しかし、運命はなんと皮肉なものか。なんと、生涯最悪ともいえる大ピンチが待ち構えていました。虜囚のように拘留されること50余日、死の恐怖と隣り合わせの「安南の役」に巻き込まれるのでした

アモイ到着から日本亡命までの流れ

この後のことを駆け足で述べると、1658年(59歳)8月にベトナムから長崎へ行き(第6回目)、後に日本時代の恩人となる安東省菴の名を初めて聞きます。10月にアモイに到着。記録は残っていませんが、朱舜水は魯王にようやく再開できたものと思われます。しかし、アモイは反清復明の主流である永暦帝と鄭成功の拠点であり、かなり肩身の狭い思いで過ごしていたことでしょう。朱舜水が補佐したとしても、ほとんど何もできなかったに違いありません。

1659年(60歳)4月、鄭成功が北征を行い、朱舜水も次男とともに従軍します。道中の城を次々に攻略し、清軍を震え上がらせた鄭成功軍でしたが、7月敵の本丸である南京の攻略戦では大敗。最後の砦だった鄭成功の大敗を見せつけられ、もはや反清復明はもはや難しいと悟り、長崎に渡来します(第7回目)。

朱舜水から水戸徳川家に託された『魯王勅書』

さて、日本亡命後も安東省菴や徳川光圀との出会いなど、朱舜水の生涯はまだ続くわけですがここでは一旦置いておき、『魯王勅書』の行方に注目していきます。

朱舜水は勅書の入った箱を懐から一刻も離さず大切に保管し、生前は誰にも見せませんでした。国が滅び、病の身で日本まで流浪してきた朱舜水。そんな彼を精神的に支えてくれた宝物が『魯王勅書』だったのでしょう。

1682(天和2)年、臨終の際に徳川光圀に預けたものと思われます。死後に弟子達によって『魯王勅書』が初めて発見され、1715(正徳5)年に『舜水先生文集』に収録されました。敕書の実物は光圀から水戸徳川家に代々と受け継がれ、幕末には藩校・弘道館に保管されていました。ただ、残念ながら1868(明治元)年の「弘道館の戦い」で、勅書を入れていた箱が被弾しています。

幕末に『魯王勅書』を保管していた藩校・弘道館

 

1912(大正元)年、旧制一高(一説には東京大学図書館)で『魯王勅書』が展示されましたが、それ以降の記録がなく、所在がわからなくなっていました。これは1945(昭和20)年8月、水戸空襲の影響が大きいでしょう。このとき彰考館が所蔵していた史料の大部分が消失。なんとか、あらかじめ避難させていた5分の1程度の史料は残り、徳川ミュージアムに引き継がれたものの『魯王勅書』は行方不明のままでした。

行方不明の期間が長くなるにつれ、『舜水先生文集』に収録されている勅書の内容が実は虚偽なのではないか、そんな声も学界で上がるようになりました。何しろ監国魯王の直筆は、中国本国でも見つかっていません。鄭成功の影に埋もれて存在感が乏しかったこともあり、こうした意見が出るのも無理もないことでした。

東アジアの研究者が結集してついに発見!

そんな長い眠りについていた『魯王勅書』でしたが、100年ぶりに目を覚ますときがやってきました。2013(平成25)年9月2日午後3時、徳川ミュージアム所蔵の文献から『魯王勅書』が発見されたのです。魯王自筆の書状が発見されたのは史上初となる快挙で、日本はもとより中国・台湾でも大きな衝撃をもって報道されました。

この発見は様々な流れが重なり合ったことで実現したもので、キッカケは2010年に台湾大学で開催された「朱舜水と東アジア文明発展国際シンポジウム」でした。ここで徳川ミュージアムの徳川眞木館長が初めて登壇し、「水戸徳川家蔵史料」の未公開文献・文物から朱舜水関係史料を紹介しました。

各国から集まった研究者たちは歴史的価値のある史料の数々に驚き、徳川ミュージアムの所蔵品への注目度が急上昇したのです。この流れを受けて、日本・中国・台湾の研究者たちで「水戸徳川家旧蔵儒学関係史料調査研究チーム」が発足され、2012年7月から史料調査が開始。調査の成果として蔵品録が出版され、朱舜水研究の環境は飛躍的に向上しました。

加えて、2013年度から水戸市と徳川ミュージアムの共働事業「『開校・彰考館』プロジェクト 水戸德川家関連史料調査・活用事業」もスタート。この事業は文化庁の助成を受けて実施され、学際的・国際的研究成果を地域・一般に還元することを目的としたものです。実際、調査成果は市立図書館・博物館、小中学校などでの巡回パネル展や出張講座、さらにはシンポジウムやホームページを通して公開・活用・発信されています。「広報みと」にも特集記事が掲載されました。

「広報みと」で紹介された『魯王勅書』

 

『魯王勅書』の発見は、以上のように気運が一気に高まったからこその結果といえます。そもそも研究活動は時間と費用を要するもので、気運が乏しければまだまだ倉庫の中で熟睡していたに違いありません。

そして、日本・中国・台湾の研究者が結集して発見につながった事実も胸を熱くさせます。きっと天国にいる朱舜水、魯王、徳川光圀たちも喜んでいることでしょう。

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