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【朱舜水】死と隣り合わせのベトナム事変、「安南の役」発生!!

今回の舞台はベトナム。朱舜水が生涯最大のピンチに陥ります。ところで、ベトナムと江戸時代の日本は無関係に感じますが、実はそうではありません。鎖国が実施されるまで両国は活発に交流しており、その影響で今回の話にも日本人が登場します。読み終えたとき、新たな東アジアの関係図が浮かび上がってくることでしょう。

かつて様々な国の船が行き交ったホイアン(Josip RmcによるPixabayからの画像)

強国を何度も打ち破ってしまう不思議な国・ベトナム

ベトナム一帯は中国から「安南」と呼ばれていましたが、時代によって異なる王朝が存在しています。陸続きのため、大国である中国王朝の侵攻を何度も受けますが、密林、沼地、山地、河川といった自然を利用した長期ゲリラ戦で打ち破るという離れ業を、古代から現代に至るまで何度も成功させています。

ユーラシア大陸を蹂躙していたモンゴル帝国が襲来してきたときは、「陳朝」(ちんちょう)が何度も撃退。その後、明には20年間支配されてしまいますが、それもゲリラ戦で撃破。明から独立して「黎朝」(れいちょう)が成立し、朱舜水の時代は一応この王朝です。時代が下り、「西山朝」(せいざんちょう)のときは清を撃退。

さらに20世紀には「ベトナム戦争」が勃発。ここでも近代兵器を満載した人類史上最強のアメリカ軍を撤退させました。常識を超越したよくわからない底力を持っているのがベトナムという国なのです。

黎朝が鄭氏政権と阮氏政権の2勢力に分裂

しかし、強国を打ち破ったとしても国力が疲弊してしまい、国内情勢が安定せず、しょっちゅう分裂や内戦を繰り返すのもベトナム史の特徴です。黎朝はまず配下の武人だった莫氏が皇位を簒奪し北部に「莫朝」(ばくちょう)を立て、南部でも皇帝を立てたことで南北朝時代になります。

黎朝の有力貴族だった鄭氏と阮氏は同盟を組み、莫朝を最北部まで追いやりますが、今度はその両者が対立。鄭氏は北部のドンキン(現ハノイ)を拠点とし、阮氏は南部のフエを拠点として分裂します。およそ1600年頃の出来事です。一応、黎朝は存続していますが、皇帝は傀儡に過ぎず実権は鄭氏が握っていました。一方、南部は事実上独立しており「広南国」(こうなんこく)と呼ばれていました。この2勢力による内戦が背景にあり、不運にも朱舜水はそれに巻き込まれてしまうのです。

17世紀前半のベトナム勢力図

国際貿易港として繁栄したホイアン

黎朝(鄭氏政権)と広南国(阮氏政権)では外交への姿勢が対照的で、鄭氏黎朝がほぼ鎖国に近い状態だったのに対し、広南国ではホイアンに交易所を設け、ポルトガルから大砲などを仕入れて軍備強化に乗り出します。また、1601年には徳川家康に書簡を送って正式な国交を求め、江戸幕府との取り引きが急速に拡大。幕府は倭寇や密貿易と区別するため、正式な許可証である「朱印状」を発行し、それを携えた朱印船が頻繁にベトナムと往来するようになります。

明末清初の中国は動乱期でしたが、朱舜水を見ていればわかる通り、たくましくベトナムとも交易をしていました。そのうち規模な日本人街や中国人街が形成され、さらにはオランダ商館まで開設し、ホイアンは国際貿易港として大発展します。

ホイアンを象徴する「来遠橋」

 

これはホイアンにある「来遠橋」(らいえんばし)。1593年に日本人が架け、日本人街と中華街を結んでいたとされています(現在の橋は1986年に修復されたもの)。2万ドン(約100円)紙幣の裏面にも描かれており、ベトナムを代表する建築物のひとつになっています。

不穏な時期に来訪していた朱舜水の悲劇

朱舜水がベトナム事変について書き残した日記『安南供役紀事』には、次のように書かれています。

「永暦十一年丁酉(1657年)正月二十九日に、国王の檄文を奉じて、字を識(し)る人を捕らえんとしていたが、翌二月三日、私を不意に捕らえた。外敵を擒(とりこ)にする如く。そして、面のあたり詩を作り、字を写さんことを試みた。」

広南国は鄭氏政権と戦うためにも徴兵、武器調達、外交文書の作成など、文筆のたつ中国人を書記に抱えておく必要に迫られていました。そして、たまたまホイアンに滞在していた朱舜水が狙われてしまいます。2月3日にまるで罪人のように捕縛され、役人から詩や字を書いてみせよと強要されました。

ところが、朱舜水は詩を作らず、ベトナムまでやってきた身の上を説明した後、「人生色々あって疲れ切ってるし、詩を作りにここに来たわけじゃないんで、それじゃ!」という感じで拒絶します。しかし、役人は一向に聞き入れず、朱舜水を軟禁しておどかし、なんとか屈服させようとしました。それでも、朱舜水には決死の覚悟があって海を渡ってきているので、なんら悪びれることもなく堂々としていました。

安南国王、激怒する!

そこで2月8日になると、国王のいるフエに連れていかれ、接見することになりました。文武の大臣はことごとく集まり、刀を持ってぐるり取り巻く者は数千人。普通の人間だったら震え上がって卒倒している状況です。ちなみに、文献にはただ「安南国王」とのみ記されていますが、在位期間から考察すると国王の名は「阮福瀕(グエン・フック・タン)」(在位期間:1648年~1687年)と思われます。

役人が杖で「拝」という一字を砂の上に書きました。「国王に拝礼せよ!」ということです。しかし、朱舜水はなんと、そのうえに「不」の字を加え、「不拝」(やらないよ!)としてしまいます。命知らずの人間は逆に恐ろしい ((((;゚Д゚))))

国王は激度し、城内の兵士たちも「奴を必ず殺せ!」と大騒ぎになります。まぁ当然そうなりますよね。それでも朱舜水は「今日、礼を守って死ねば、微笑んで地下に入れます」と答え、死の覚悟を決めました。

安南に住む日本人との交流

翌2月9日の夜明け、朱舜水は軟禁先で目を覚まし、死ぬ前の身辺整理を始めます。水で身体を清め、衣替えし、『魯王勅書』をお供えし拝みました。それにしても、なんという落ち着きようでしょうか。常人には到底不可能な境地です。

そして、ここまでお供してくれた陵五という人物にホイアンの寓居(仮住まい)の整理を託します。この陵五を含め、寓居の関係者はなんと日本人でした。彼らとの交流の様子が記されています。

「生活の面倒は陵五にやってもらっており、後の整理は彼に任せた。寓居にある物を売り払い、そのお金で弥左衛門に銀四十両八銭、寓居の家主である権兵衛に部屋代銀三十両を還し、残りは陵五に与え、手間賃とする。持ってきた衣服や荷物のほとんどは蘇五呂に渡す。」

陵五、弥左衛門、権兵衛、蘇五呂……。どうやら日本人街で朱舜水は世話になっていたようです。17世紀のベトナムにこんなに多くの日本人が住んでいた事実にビックリです。加えて、朱舜水と日本人の縁の深さにさらに驚きます。後に彼は日本に亡命し、そこで生涯を終えるわけですが、すでにここで日本人との交流が育まれていたのですね。

さて、死刑にあたり、朱舜水は安南役人に対し以下のように述べます。

「私は明の徴士(ちょうし:召されても仕官しない隠士)です。安南に来たのは、異民族の侵攻によるところであり、王を拝することは出来ません。思うに私の死後、あなた方は私の骨を収めるでしょう。もし収めることになれば、どうか墓には『明徴君朱某之墓』(※注1)と記してください」。

あくまで節を守り、断じて屈しない朱舜水。この堂々とした姿に、安南役人たちの心にも次第に敬意が生まれ、拘束が緩んでいきます。

注1…茨城県常陸太田市の瑞龍山には水戸徳川家歴代の墓地があり、そこにまったくの例外として朱舜水の墓があります。墓には徳川光圀の筆によって「明徴君子朱子墓」と刻まれており、これは「安南の役」の史実にちなんだものと思われます。瑞龍山にある朱舜水の墓については、いずれ別記事で詳しくお伝えします。

長かった拘留生活からの解放

2月17日、状況が少し落ち着いてきたのでしょう。前回記事でも紹介しましたが、『監国魯王にたてまつる謝恩の奏疏(そうそ)』(前疏)を書きます。これは『魯王勅書』を読んだときの感動と御礼、そして勅に従って魯王の下に馳せ参じることを返事したものです。

「星夜、処士の巾衣をはじめてつくり、謹んで十六という吉日を択び、さらにあえて公所で礼を行なわなかった。自宅に恭しく香炉机を設けて読み、頭を叩きつけて謝恩し、これを遵守せんことを誓う。」

2月19日、安南国王・阮福瀕から手紙が送られてきて仕官を薦められましたが、朱舜水は丁重に断ります。中国でもベトナムでも後年は日本でも、何度もリクルートされる朱舜水。優秀な人材はいつでも、どこでも必要とされることがわかります。

4月までフエに拘留されてはいましたが怖い目に遭うことはなく、国王や役人たちから学問について質問を受けたりしていました。4月21日、これ以上拘留の憂いがないことを悟ると、国王宛てにお別れの手紙を書き記し、ようやくホイアンに帰ることができました。そして、今回の事件のことをまとめた『安南供役紀事』を書き始めます。

5月27日、『監国魯王にたてまつる謝恩の奏疏』(後疏)を書きます。ここでは安南抑留のありさまを報告し、すぐに魯王の下に駆け付けることができなかった理由を釈明しています。そのせいか、安南のことは「尊大でありながら、きわめて見解が狭い」と厳しい口調で書いています。

そして、『安南供役紀事』の最後のページには、「6月初三、連日、吐血が止まらない」と書かれています。朱舜水、このとき58歳。苦難続きで身体はボロボロ。それでも不屈の精神で己を振るい立たせ、茨の道に挑んでいくのでした。

中国からもたらされ、ホイアンで独自に定着した「ランタン祭り」。毎月、満月の夜、街中の照明をランタンの灯りだけにして過ごします(Nguyen DoによるPixabayからの画像)

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