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朱舜水から着想を得た「水戸藩らーめん」

1665(寛文5)年、朱舜水は徳川光圀に対面を果たします。そのときに中華麺(拉麺)を献上したと考えられており、このことから「水戸黄門が日本で初めてラーメンを食べた人」と言われてきました。これは朱舜水のことを知らない人でも聞いたことがあるほど有名なものになっています。

『光圀伝』(冲方丁)でもこの逸話を取り入れており、二人は対面後に厨房に行き、にぎやかに拉麺やうどんを作りながら胸襟を開くエピソードが描かれました。

今回はこの逸話から着想を得て生まれた「水戸藩らーめん」にスポットを当てながら、日本人の国民食にまでになったラーメンの歴史を紐解いていきます。

ラーメンに欠かせない「かん水」

ラーメンの語源として有力なのは中国語の「拉麺」。「拉」(ラー)は「手で引き延ばす」意味です。中国では古来から各地で様々な「拉麺」がありましたが、現在の中国においても拉麺の素材を明確に定義や規制する条文は存在しません。

一方、日本のラーメン(中華めん)には定義が存在しており、「生めん類の表示に関する公正競争規約」によれば、

「うどん」とは、ひらめん、ひやむぎ、 そうめん、その他名称のいかんを問わず小麦粉に水を加えて練り合わせた後、製めんしたもの又は製めんした後加工したものをいう。

「中華めん」とは、小麦粉にかんすいを加えて練り合わせた後製めんしたもの又は製めんした後加工したものをいう。

かん水(鹹水)・・・普段まったく気にしないでラーメンを食べていると思いますが、アルカリ塩水溶液の添加物です。これを小麦粉に加えることで、黄色がかって独特のコシが出るようになります。この有無によってうどんとラーメンが区別されています。

一説では、かつて中国の内モンゴルに塩湖(鹹湖)があり、地元住民がそのアルカリ性物質を多く含む水を小麦粉に入れてみたら、いい感じのコシと香りが生まれたとのこと。こうして、たまたま発見された製法が中国各地に広まっていったと言われています。

朱舜水が献上したと思われる拉麺

実のところ、「朱舜水が徳川光圀に拉麺を献上した」という直接的な記録は存在していません。ただ、朱舜水の持参物に拉麺を作るための材料表があり、史料として伝わっています。このことから日本渡来後も故郷の拉麵を作って食べていたこと、さらには好奇心旺盛な光圀もそれを食べていたと考えられています。

それを裏付ける史料が『日乗上人日記』で、朱舜水が死去してから15年後にあたる1697(元禄10)年6月16日、光圀が僧侶の日乗に

「うんどんのごとくにて、汁ヲいろいろの子ヲ入テかけたる物」

を振る舞ったという記録が残っています。現在のラーメンとはかなり異なるものだと思いますが、朱舜水から教えてもらった中華麺(拉麺)の可能性が高いと考えられています。70歳となり西山荘に隠居していた光圀。ニコニコしながら家臣たちに拉麺をふるまっている“ご隠居様”の顔が目に浮かびます。

さて、この逸話は今から30年ほど前に各メディアで紹介されたことで、全国的に有名になりました。料理研究家の小菅桂子が『水戸黄門の食卓 元禄の食事情』(中公新書、1992年)の中で紹介しています。

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また、1994年から開設された「新横浜ラーメン博物館」でも、“黄門ラーメン”の再現レプリカを展示し、逸話の普及に拍車をかけました。

「新横浜ラーメン博物館」に現在も展示されている”黄門ラーメン”の再現レプリカ。

 

当時は国民的テレビドラマ『水戸黄門』(TBS)が放映されていました。人気者・水戸黄門と国民食ラーメンがドッキングしたのです。いかにもメディアが喜ぶ構図に、大変な熱狂を呼びました。逆に、黄門様に拉麺を紹介した朱舜水はまったくメジャーにならなかったのは不憫ですが・・・
( ノД`)シクシク…

町おこしで「水戸藩らーめん」を考案

そんな熱狂の中、水戸市内の飲食関係者たちは考えていました。「水戸が注目されるのは嬉しいが、一過性の注目で終わってしまってはもったいない。水戸の町おこしに生かせないか」と。当時はバブル崩壊直後の不景気のさなかでした。

こうして一念発起した有志により「水戸藩らーめん会」が発足され、長年黄門料理の研究をしていた大塚屋の大塚子之吉氏(故人)監修のもと、川﨑製麺所が麺作りを担当し、“黄門ラーメン”の再現プロジェクトが始まりました。彼らが文献をもとに再現したレシピは以下。

・レンコンを練り込んだ麺
・火腿(ハム)でダシをとったスープ
・「五辛」の薬味

「新横浜ラーメン博物館」に展示されている”黄門ラーメン”の再現レシピ。

ところが、見たことも食べたこともないラーメンの再現は困難を極めました。「五辛」も当時のすべてを特定することはできなかったため、現在ではラッキョウ、ニンニク、ニラ、ネギ、ショウガを使っています。そして、何度も試作と試食をくりかえし、1993(平成5)年ついに完成。「水戸藩らーめん」として商品化に成功しました。レンコンを練り込んだ麺はなめらかでコシも強く、代表的な特徴になりました。

「水戸藩らーめん」は水戸市内だけで13軒の飲食店で提供され、各メディアで取り上げられたこともあり、水戸のご当地ラーメンとして有名になりました。

「水戸藩らーめん」の現在

ところが現在、「水戸藩らーめん」を提供しているのは、県内では「石田屋」(水戸市柳町1丁目)のわずか一軒だけです。これは全国的に共通の課題ですが、後継者不足、経営難、コロナ禍の影響などにより、お店がどんどん閉店してしまったためです。せっかく朱舜水と徳川光圀との交流から生まれたご当地ラーメンだけに、生き残ってほしいものです。

なお、川﨑製麺所のオンラインショップでは、土産用の「水戸藩らーめん」を購入できます。

今や貴重になった「水戸藩らーめん」。石田屋で食べることができる。

日本ラーメン今昔物語

最後に、日本ラーメンの歴史について簡単に触れます。長いこと「水戸黄門が日本で初めてラーメンを食べた人」と言われてきましたが、2017年に新史料が発見。1488(長享2)年に調理された「経帯麺」が、日本最古の中華麺(拉麺)とされるようになっています。

ただ、「経帯麺」も「黄門ラーメン」も僧侶や武士のみが食しており、大衆に普及したわけではありません。つまり、それらが今のラーメンにつながっているわけではないので注意!

現在につながる日本への伝播は、明治時代を迎え横浜や神戸に中華街が誕生し、そこで提供された「南京そば」がルーツとされています。そこから日本人好みの醬油ベースを作ったのは、1910(明治43)年浅草にオープンした「来々軒」と言われています。「来々軒」は、横浜税関に勤務していた尾崎貫一が退職後に開業。横浜で南京そばに出会った尾崎は、そこで中国人(当時は清朝)コックを12名スカウト。日本人の味覚に合わせた醤油ラーメンが爆発的な人気となり、元祖「行列ができるラーメン屋」となりました。その後、「来々軒」の屋号は多くの同業者に冠され、ラーメン屋の代名詞となります。

それからのラーメンは日本各地で独自の進化を遂げ、さらにはカップラーメンが登場したり海外にまで進出したりと、全貌を把握するのは困難なほどバラエティに富んでいます。好奇心旺盛で先見の明があった黄門様は、ラーメンがここまで愛される食品になることを予想していたのでしょうか? 

「助さん、格さん、この中華麺はいつか日本で流行るときが来るぞ!!」。そんなことを言いながら振る舞う黄門様を想像してニヤニヤしてしまいます。

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