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朱舜水 ~徳川光圀の師となった中国人~
朱舜水の木像。徳川ミュージアムに常設展示。明の貴人がかぶっていた紗帽と長い付け爪を身にまとっている。 

水戸黄門として有名な水戸藩第2代藩主徳川光圀。その学問の師は、実は中国人だったことをご存じでしょうか? 彼の名は朱舜水。壮大な行動力と考え方を備えた人物で、彼の影響で水戸藩の「水戸学」は大きく発展。時を経て、その思想は日本が変革する契機にもなりました。水戸藩に招かれた異国の賢人について少しでも知ってもらえれば幸いです。

朱舜水像。NTT東日本茨城支社(水戸市北見町)の入口近くにある。藩政時代この地に舜水祠堂と呼ばれる堂舎があったため。

の滅亡で燃え上がる愛国心

朱舜水(しゅ しゅんすい)は1600年、明の浙江省余姚で生まれました。幼い頃から優秀だったため超難関官僚試験「科挙」の及第も期待されていましたが、腐敗を極める明朝政府に絶望し、長く在野に留まっていました。
各地では重税を苦にした農民反乱が頻発。その混乱に乗じて北方から満州族が侵入し、各都市を撃破。そんな国家存亡の危機にあっても、高官たちは自分が助かることのみに夢中。誰の目から見ても、明朝は風前の灯でした。そして1644年、ついに首都北京が陥落し、明朝は滅亡します(朱舜水44歳)。中国大陸の新たな支配者となった満州族は国号を「清」とし、辮髪などの風習を漢人たちに強制。大陸は大混乱に陥りました。
朱舜水は明朝政府には絶望していましたが、祖国「明」を愛する気持ちは強く持っていました。満州族を追い出し、明を再興したい。そう願う漢人たちによる「反清復明」戦争に朱舜水も身を投じていきます。

アジアを股にかける大交易商だった

清朝の追撃を逃れた明皇族は大陸南部に「南明」を樹立し、抵抗を続けました。南明政府は有能な朱舜水に加わってほしく何度もスカウトしましたが、彼は全て辞退。なぜなら南明は一致団結するどころか、相変わらず権力闘争に明け暮れていたからです。朱舜水は政権内部での活動をあきらめ、交易による利益で金銭的にバックアップする方法を取ることにします。
地図は朱舜水の主な足跡です。交易で長崎に7回も訪問し、さらには安南(ベトナム)にまで足を延ばしています。350年前の人物とは思えないほどの行動範囲で、中年期の朱舜水(44歳~60歳)は儒学者というよりビジネスマンでした。
17世紀は航海技術もかなり発展していましたが、それでも嵐や海賊などの危険と隣り合わせ。それだけに交易は莫大な稼ぎを生みました。もちろん朱舜水の目的は金儲けではなく祖国奪還であったのは言うまでもありません。

図2 東アジアを股にかけた朱舜水の足跡。景徳鎮と伊万里は朱舜水と
直接関係ないが、先日の特集に関連するため記す。

清復明を断念し長崎へ

南明は20年弱抵抗を続けましたが、じりじりと勢力を削られ、やがて命運尽きます。朱舜水は失意のうちに大陸を去り、長崎に向かいました(60歳)。長崎を選んだのは過去に何度も来ていたことと、日本人から「唐人」と呼ばれていた同郷の中国人が少数ながら住んでいたからでした。とはいえ、当時の日本は鎖国の真っ只中。例外的に長崎は貿易港として開かれていましたが、異人の居住は認めていません。それでも、同郷唐人や朱舜水に弟子入りした日本人が熱心に長崎奉行所に働きかけ、居住が認められました(61歳)。

川光圀からの招聘

すでに老境に入っており、このまま静かに長崎で一生を終えるつもりでいた朱舜水でしたが、1664年天地がひっくり返るほどの出来事が発生します。なんと徳川光圀の使者が来訪し、水戸藩に学問教授として招聘したいと告げたのです(65歳)。
このとき光圀は藩主になって4年目。学問を奨励し、史書編纂を成し遂げようと野心に燃えていました。そして、儒学の本場である中国から渡来した人物を師として迎えることを思いつきます。常人の理解を超えた発想と、それを実現できる権力を持っていた光圀。優秀な異人として遠く江戸にまで伝わっていた朱舜水を獲得すべく、使者を派遣したのでした。
しかし、朱舜水は何度も固辞します。「私は任官経験がなく、ずっと在野でやってきた身で老い先も長くありません。江戸に赴き、しかも徳川の大大名に学問を教えるなんてとんでもない」。しかし、光圀が学問を好む藩主であることを知るにつれ、興味が募っていき、ついに承諾しました。

「水戸藩らーめん」。朱舜水は徳川光圀に中華麺を献上したといわれ、
それにちなんで1993年に生まれたご当地ラーメン。
「石田屋」(水戸市柳町1丁目)で食べることができる。

戸学に影響を及ぼす

1665年、朱舜水は江戸の水戸藩小石川邸にて徳川光圀と対面。朱舜水66歳、徳川光圀38歳でした。二人はお互いの器の大きさに感嘆し、奇跡的な出会いを喜びました。その後、駒込邸に住居を与えられた朱舜水の講義が開始。儒学の本場である中国の知識、多くの航海で見聞した世界情勢など、刺激に満ちた講義に光圀を始め水戸藩士たちは目が覚める思いで学問に励みました。
江戸幕府は朱子学を中心とした思想教育を奨励していましたが、朱舜水は空論を排し、実学を尊ぶ陽明学も重視するよう説きます。学問は社会問題を改革するためにあるという考え方です。その応用範囲は幅広く、祭器、養蚕、種痘の処方にまで及びました。こうした実用的な学風は「水戸学」として独自の進化を遂げます。
余談ですが、時代を経て幕末になると第9代藩主徳川斉昭によって藩校・弘道館が設立され、「尊王攘夷」が教育理念に掲げられました。この思想が登場したのは弘道館が最初です。やがて水戸学の思想は日本中に流布し、尊王攘夷は幕末の一大テーマに変化。歴史のうねりは皮肉にも体制側である江戸幕府をも倒してしまい、明治維新へつながっていきます。直接関係はありませんが、朱舜水が蒔いた種が時を経て、日本の変革につながっていると考えるととても不思議です。
350年前に育まれた徳川光圀と朱舜水の日中交流は、知れば知るほど驚きに満ちており、グローバル化が進む現代の私たちに多くのヒントを与えてくれます。

諸国漫遊のご老公ではなく、藩主就任時の若き徳川光圀。

 

現代でも交流を続ける末裔たち。水戸徳川家15代当主徳川斉正氏の招待で、茨城県を訪問した朱舜水11代後の子孫、朱育成さん(写真中央)。
LI発行人の黄磊(一番左)も茨城空港までお見送りした。

 

本記事はダイジェスト版です。より詳細な記事は以下からご覧ください。

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