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【朱舜水】安東省菴の並外れた献身

柳川藩の儒学者 安東省菴(あんどう せいあん)は、教科書に登場するわけではないので一般的には知られていません。
しかし、彼なくして朱舜水の日本滞在は実現せず、その後の徳川光圀との出会いもなかったかもしれません。
とくに自分の生活を犠牲にしてまで、師である朱舜水を支えた姿には心打たれます。彼が未来につないだバトンにご注目ください。

朱舜水と安東省菴、念願の対面

1659(万治2)年、朱舜水が長崎に着いたとき、安東省菴は自藩の柳川藩にいました。おそらく入徳から「朱舜水の長崎滞在の力になってほしい」という手紙を受け取ったものと思われます。

しかし、すぐに長崎に行けない事情がありました。江戸時代は個人に移動の自由がなく、藩外に出るには藩主の許可が必要だったのです。しかも、このときは折り悪く柳川藩主が江戸在府中だったため、出国の許可が得られませんでした。そこで、まずは来日を歓迎する手紙をしたため、許可が出たらすぐに駆け付ける旨を朱舜水に伝えました。

翌1660(万治3)年秋の終わり、省菴は許可を得て長崎に赴き、双方望んでいた初対面が叶います。このとき朱舜水61歳、安東省菴39歳でした。

長崎奉行所への嘆願

省菴は朱舜水に弟子入りを申し込みます。もともと省菴は京都で松永尺五という儒学者に師事していましたが、3年前の1657(明暦3)年に死去していました。
師を失くし学問に不安を感じていた省菴にとって、朱舜水は大きな道しるべに思えたことでしょう。朱舜水も困難な状況だったこともあり、弟子入りを快諾しました。

早速、省菴は同志と共に連署して、長崎奉行 黒川正直に朱舜水の日本滞在を求めました。省菴は柳川藩主である立花家から学才を認められて、江戸遊学に派遣されるほどの人物。彼からの嘆願は高い効果があったようです。奉行は、肥前小城(ひぜん おぎ)藩主である鍋島直能の同意を得て、許可を与えました。
鎖国下の日本で、朱舜水は晴れて滞在することが認められたのです。

写真は長崎奉行所を復元した施設。実際に長崎まで取材しに行ったので、別の機会に詳しく述べます。

省菴、祿高の半分を提供する

省菴が次に着手したのは、朱舜水の生活費でした。ここで彼は惜しみ無く自分の祿高の半分を朱舜水に提供します。とはいえ、学才ある藩儒の省菴でも決して高給取りではありません。石原道博教授によれば、彼の祿高は200石でしたが、年貢や経費を差し引くと実米80石。その半分の40石を朱舜水に提供したとのこと。さらに年2回は柳川から長崎に来て朱舜水のお世話もしていたので、その往復費用で残りの40石もなくなったと述べています。

スッカラカンなので、当然まともな生活は送れません。省菴自身は破れた着物を着て、家にあるのは鉄鍋ひとつ。食事は玄米と野菜の吸い物のみで、たまのご馳走がイワシ数枚という極貧ぶりでした。親類や友人たちは皆あざけり笑い、「ほどほどにしろよ」と忠告したほどでした。

江戸時代町人の食事。一汁一菜に、漬物や野菜の煮物、魚などの副菜が付いた。朱舜水への援助で金欠だった省菴にとっては、イワシすらご馳走だった

 

ところが、当の本人はまったく平気で日夜、書を読む生活が楽しくて仕方がありませんでした。儒学の本場である中国からやってきた文人 朱舜水は、省菴にとって望んでいた以上の師。彼から学問を学べる、疑問が生じたら質問できる。その環境が得られたことで、日々の貧しさなどまったく気にならなかったのでしょう。この援助は5年後である1665(寛文5)年に、徳川光圀の招聘に応じて江戸に赴くまで続きました。

それにしても、安東省菴の献身は並外れたものです。師を支えるのは弟子の務めという儒学の精神が根底にあるとはいえ、誰もが簡単にできることではありません。
彼の献身があったおかげで朱舜水は日本に居場所を得ることができ、それが後の徳川光圀との出会いにつながっていきます。
個人的には、もっと有名になってもいい人物だと思います。福岡県柳川市にも取材に行ったので、彼の生涯についても別の機会に詳しく述べます。

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