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【朱舜水】「忠烈の知友」王翊と中秋節

朱舜水の人生には、中国時代と日本時代のそれぞれに欠かすことのできない人物がいます。

日本時代はご存知、徳川光圀と以降で詳述する安東省菴(あんどう せいあん)。

そして、日本亡命前の中国時代は監国魯王王翊(おう よく)。

今回は「忠烈の知友」王翊との親交についてご紹介します。

義兵を挙げ、頭角を現す王翊

王翊(おうよく)は浙江省慈溪の出身で、後に隣接する余姚に移ります。つまり朱舜水とは同郷。ただ1616年生まれなので、朱舜水よりも15~6歳ほど若いです。1647年に王翊は義兵を挙げ、余姚の南百十里にある四明山に立てこもります。王翊たちの奮闘で清軍の食い止めに成功し、四明山は舟山(現浙江省舟山市)を防衛する前線基地となります。

1649年6月、王翊は健跳(現浙江省台州市三門県健跳鎮)に逃れていた監国魯王に謁見し、河南道御史、副都御史に就任。この時期、王翊の抵抗に手を焼いていた清軍は、高官厚禄を条件に降伏を促す策に切り替えます。そこで使者を派遣しますが、王翊は使者を縛って斬首し、徹底抗戦の意を示します。

朱舜水にとって重要な人物が揃う

同年10月、監国魯王が舟山に迎えられ、同地が反撃の拠点となります。この舟山で朱舜水は初めて魯王に会ったものと思われます。魯王政権は兵士の給与払いが遅れるほど困窮していましたが、朱舜水が海外交易で稼いだ軍資金を提供して凌ぎました。朱舜水の魯王への敬愛の気持ちはさまざまな史料で確認できますが、その理由は何だったのでしょうか? 絶望的な状況でも「反清復明」をあきらめない姿に心を打たれたのか。それとも、自分のことより兵や民のことを考える気持ちに共感したのか。いずれにしても、大きな器量の持ち主だったのかもしれません。

1650年、朱舜水は魯王政権からも再三仕官を請われますが、やはり全て固辞。「私は宮仕えが苦手です。それより交易で支援するのが性に合っているようです」。そんな風に伝えて断ったのかもしれません。

同年3月、王翊が舟山に来訪し再び鲁王に謁見。このとき兵部右侍郎を授かります。国防次官に相当する地位なので、魯王からの信頼の大きさがわかります。そして、朱舜水とも対面しました。

朱舜水は後に述懐しています。「王翊はまみえたのが最も遅かったが、逆に最も理解し合える友人だった。言論所作が立派で忠義に厚く、私にとって忠烈の友だった」。この言葉からも王翊との友情の深さが伝わってきます。

知略優れる二人は「反清復明」を実現させるため、さまざまな戦略を話し合いました。ともに四明山に行き、練兵の手伝いもしています。また、「日本乞師」(にほん きっし)も策のひとつに上がりました。

「日本乞師」とは、日本(江戸幕府)に対して軍事支援を求めた行動で、鄭芝龍・鄭成功の父子や、その他さまざまな人物が、長崎に使者を派遣して交渉を行っていました。結果的には日本が鎖国をしていたため成果は得られませんでしたが、朱舜水は「王翊のために、なんとかして日本からの援兵を実現させたいと思った」と後年に述べており、これが度々長崎を訪れた理由のようです。

ともかくこの1650年は、朱舜水(51歳)にとって理解し合える魯王(33歳)、王翊(35歳)と交流できた充実した年だったことでしょう。翌年、朱舜水は戦略を実現させるため、まずは安南(ベトナム)に旅立ちます。これが王翊との今生の別れになるとは、当然知る由もありませんでした。

王翊、壮絶な立ち往生を遂げる

1651年、戦局は急変します。清軍は防御の厚い四明山を攻略するため、三方から満遍なく攻撃し、王翊の軍は全滅。7月、ついに捕縛されてしまいます。しかし、王翊は取り乱すことなく、牢の中でも日々身なりを整え、堂々としたものでした。清兵から「貴様はもうじき殺されるのに、なぜそうまで身なりを気にするのだ?」と問われたとき、「決まっているだろう。我ら漢人官僚の威厳をお前らに知らしめるためさ!」と答えました。

清軍が集結し尋問が行われる日、王翊は臆せず叫びます。「真の勝敗は天のみが知る。お前らごときにわかるものではない!」。激怒した清軍は王翊に対し、次々に矢を放ちます。その数20本以上。それでも真っすぐな木のように立ったまま、苦しみの一声さえあげず、壮絶な立ち往生を遂げます。享年36歳。この日は中秋節(8月15日)だったと伝えられています。

前線である四明山が落ちた後は、あっという間でした。舟山は8月に陥落。魯王はかろうじて脱出し、アモイを拠点にしていた鄭成功の庇護下に入ります。

中秋節に親友の冥福を祈る

ベトナムにいた朱舜水は当然、王翊の戦死を知りません。彼がその死を知るのは数年後のことになります。大きなショックを受けたことは想像に難くありません。王翊の戦死した日が中秋節だったと聞き、それ以来中秋節の日には門を閉ざして来客を謝絶し、王翊の魂をいたみ、生涯にわたって中秋の名月を愛でることをしませんでした。

以前の記事でも述べましたが、中国人にとって中秋節は古来より重要な日。それでも、名月を愛でずに冥福を祈っていたのだから、朱舜水にとって王翊がどれほど大切な友人だったのかがうかがえます。

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