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【(株)サザコーヒー 鈴木誉志男会長 特別寄稿文】旅する儒学者・朱舜水は江戸時代の日本でコーヒーを飲んでいた!?

文・サザコーヒー 代表取締役会長 鈴木誉志男

東洋大学法学部法律学科卒。1969年「且座」(サザ)コーヒー開店。高品質でユニークな自社ブランド商品を次々に発表し、ファン層を拡大。40年にわたり世界各国のコーヒー産地を視察し、コーヒーの歴史や文化をたどる旅を続けている。

 

 

水戸徳川家に大きな影響を与えた朱舜水

茨城県の県都水戸市において、朱舜水といえば、水戸藩第2代藩主の徳川光圀(水戸黄門)にラーメンを紹介した人、「水戸藩らーめん」の人として、水戸の観光産業に定着している。
朱舜水は明の滅亡の際に援助を求めて来日し、徳川光圀によって水戸藩に招かれた儒学者。水戸学の思想に大きな影響を与えた。
朱舜水の墓は、水戸徳川歴代藩主の墓である常陸太田市の瑞龍山にある。ここに墓があることは、彼がいかに破格の処遇を受けていたかという証でもある。水戸徳川家の墓は日本では珍しい儒教形式で、亀の胴体に龍の首が付けられている合石の様式である。これらを見ても朱舜水が水戸徳川家に与えていた影響の大きさがわかる。

コーヒーのつながりは伊万里焼にあり

さて、私はコーヒー屋として恐れ多くも、失礼にあたるかもと承知のうえで、「朱舜水はコーヒーを飲んでいた。もしかしたら徳川光圀もコーヒーを飲んでいた」。こんな仮説を追いかけている。
その理由として、17世紀に世界のコーヒー産業を独占していたオランダ東インド会社の航路(図1)と、朱舜水の足跡が一部重なるからである。中国の明朝から清朝に権力が移行する30年間に、オランダ東インド会社は長崎を本拠地として、インドネシア、ベトナム、台湾、中国から、海のシルクロードと呼ばれる海路を通ってヨーロッパへ陶磁器、絹、インド綿、染織を輸出していた。
ヨーロッパでは、明の陶磁器はチャイナと呼ばれ、需要が高まった。

図1 オランダ東インド会社の交易路。地名は当時の呼び名。

しかし、清朝は1661年に「海禁令」を出し、陶磁器を含めたすべての輸出を禁止してしまう。そこで、オランダ東インド会社は、中国陶器の代替品を日本の伊万里焼に求めた。染付の原料となるブルーの陶器の顔料、呉須(ごす)を中国から入手。さらに陶磁器の本場である景徳鎮(江西省)から磁器の見本を取り寄せ、日本人陶工に学ばせた。手先の器用な陶工はたちまち技術を習得して、1650年伊万里はヨーロッパ向け磁器の一大輸出生産地となった。最近の研究では1650年から、123万個の伊万里焼が輸出されていたという。

交易で使われたオランダ船。
商船ながら海賊用の大砲を片側だけで九門も搭載。

なぜ伊万里焼は大人気になったのか?

それほどの陶器がヨーロッパで人気になったのは、実はヨーロッパがコーヒーの大流行期だったからだ。コーヒーの原産地はエチオピアで、17世紀にはコーヒー飲料がヨーロッパに早いスピードで広がった。1650年ロンドンにコーヒーハウスが誕生したが数年後にはなんと2000軒にまで拡大し、上流階級から庶民にまで定着した。
ただ、当時のヨーロッパには磁器を作る技術が無く、厚手の陶器しかなかった。ヨーロッパの人々は薄くて軽い磁器の素晴らしさに魅了された。中国の茶器に、同時代に入ってきたコーヒーを入れて飲む。これが大流行したのだ。さらにコーヒーカップとしての需要が高まった。それが伊万里焼だった。

海のシルクロードを旅していた朱舜水

朱舜水は1600年に浙江省で生まれ、1682年に江戸で没した儒学者だが、壮年期、中年期はむしろ南シナ海を駆け巡ったビジネスマンだったといえる。朱舜水は7回も長崎を訪れている。1回目は1645年(46歳)。2回目は1647歳(48歳)、中国舟山(浙江省の密貿易地)から長崎へ。3回目は1652年(53歳)、安南(ベトナム)から長崎へ。4回目は1653年(54歳)、安南から長崎へ。5回目は1654年(55歳)、安南から長崎へ。6回目は1658年(59歳)、安南から長崎へ。
彼がこれほど交易に励んだのは、むろん金儲けのためではなく、落日の明朝政権を金銭的にバックアップするためだったが、ついには再興が絶望的であることを悟る。そして、1659年(60歳)、7回目となる長崎行きで日本亡命を決意した。

1700年頃のロンドンのコーヒーハウス。
テーブルに置かれているコーヒーカップに取っ手はまだ無い。

伊万里焼の黄金期に長崎訪問

朱舜水が初めて長崎を訪問した1645年から日本に亡命するまでの15年間は、伊万里焼の黄金期ともいえる時期だった。オランダ東インド会社の長崎商館長ワーヘナールの日記によると、1652年(朱舜水3回目の訪問年)にジャカルタから伊万里焼のアポセカリーポット(薬壺)2000個、1659年(7回目の訪問年)にはアラビアのモカ港(イエメン)に向けて56000個の磁器の注文が入っている。そして、1661年清朝の海禁令により、東インド会社は活発に輸出を続けていく。

1700年代のヨーロッパでコーヒーカップとして利用された
伊万里焼「色絵花盆牡丹唐草文蓋付小碗」。

「朱舜水がコーヒーを飲んでいた」を推理する

オランダ東インド会社は世界初の株式会社であり、ヨーロッパへのコーヒー輸出港、イエメンモカ港を独占していた。長崎出島の商館長は、今でいう商社マン。日本人にコーヒーを飲む、消費する啓蒙運動を行っていた。しかし、「日本人はミルクを白い血である。仏教徒は血を飲まない、困ったものだ」と館長は嘆いている。オランダは牧畜の国、ミルクコーヒーを日本人に飲んでほしかったのだ。
この時代の長崎は東アジアの貿易港であり、唐人、スペイン人、ポルトガル人が住んでいた。1639年南蛮人と呼ばれたスペイン、ポルトガル人は長崎から追放されたが、オランダ人は紅毛人と呼ばれ、出島に居留が認められた。長崎には南蛮料理、中華料理、カステラ、パン、コンペイ糖など異国の食文化が浸透していた。長崎商館にはオランダ人が平均10人ほど居留していて、年間1トンもコーヒーを消費していた。
オランダ人はオランダ通詞(通訳)に、給与をコーヒーで支払っていた。そしてオランダ通詞は、江戸や大阪から来る人に長崎土産としてコーヒーを販売していた。コーヒー豆は、商館にある家庭用焙煎機で焙煎され、フレンチロースト(少し苦いコーヒー)が流通した。
その時代7回も長崎を訪問した旅する儒学者、朱舜水。アジアの経済、政治を知り、世界の食文化に通じていた。地政学的にも、オランダ人が利益を上げて飲んでいる未知の味コーヒーを、好奇心が強く挑戦者である朱舜水が飲まないはずがないと確信する。

1743年のパリのカフェ(左)。18世紀に制作されたデュ・バリー夫人の
肖像画(右)。この頃にはコーヒーカップに取っ手が付いている。
伊万里焼も後期には取っ手が付けられるようになった。

徳川光圀はコーヒーを飲んでいたか?

徳川光圀は『大日本史』を編纂した人。仮説から史実に基づき調査して、歴史を記した好奇心の強い人だ。山羊のチーズもバターも食していた黄門様。朱舜水が長崎からコーヒーを水戸へ持ち込んだら、黄門様は間違いなく飲んだであろう。コーヒーはイエメン産モカ、ローストはやや苦いオランダローストであろう。「珈琲は少し苦いのう。助さん、格さん!」そんな風につぶやいていたかもしれない。

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