今回から『朱舜水の生涯~日本編』の始まりです。1659年冬、中国を捨て長崎に着いた朱舜水(60歳)。長崎に来るのはこれで7回目。それだけ来ていれば、日本は1641(寛永18)年に鎖国が完成し、異人の移住を認めていないことは承知だったでしょう。単に長崎で静かに暮らしたいだけの朱舜水でしたが、いきなり壁に当たります。
唐人同胞のたまり場、入徳医院
この困った状況で真っ先に相談に行ったところが、潁川入徳(えがわ にゅうとく、1596~1674年、このとき64歳)の医院と思われます。元の名は陳明徳といい、明が滅亡する前の時期に日本に渡来していた唐人(中国人)です。薬学、漢方医学を学び、その医術が評価され、ひきとめられるままに定住。帰化して日本姓にあらため、医院を開業しました。
後年の長崎には中華街が形成されるほど中国人が多数住むようになりますが、この時期はまだほとんどいません。それだけに、朱舜水にとっては心強い同胞であり、しかも入徳は同じ浙江省の出身でした。
なお、この入徳医院は酒屋町(現長崎市栄町、魚の町)にありました。長崎を代表する名所のひとつ「眼鏡橋」に隣接する地域です。眼鏡橋が架けられたのは1634(寛永11)年なので、朱舜水もこの橋を見たり、渡ったりしていたと思います。そしてこの橋を架けたのも、中国から渡来し、興福寺(長崎市寺町)2代目住職となった黙子如定(もくすにょじょう、1597年~1657年)という唐人でした。長崎がいかに海外文化と触れあいながら発展してきたかがわかります。
同居人も後に大人物になる
1653(承応2)年7月、朱舜水が4回目に長崎を訪問したときも、この入徳医院に寄宿しています。このときは、清の圧政から逃れて同年に長崎に渡来した戴笠(たいりゅう)という唐人と同宿になりました。彼も浙江省出身なので、家主の入徳と共にさぞかし馬が合ったと思います。
戴笠は翌1654(承応3)年に前出の興福寺で出家し、独立性易(どくりゅう しょうえき、1596年~1672年)と名乗ります。後に江戸に赴き篆刻を広め、「日本篆刻の祖」として名を残す人物です。
交流サロンに顔を出した安東省菴
入徳医院には朱舜水のような唐人たちに加え、病気を診てもらうために通院する日本人もおり、さながら交流サロンの側面もありました。とくに儒学者にとって、儒教の本場から来た唐人たちとの交流はとても刺激的だったでしょう。
1654(承応3)年の春、ひとりの儒学者が病気療養のために入徳医院を訪れます。それが本連載で度々名前が出ている安東省菴(あんどう せいあん)です。朱舜水はすでに安南(ベトナム)へ赴き不在でしたが、このとき省菴は入徳と独立から朱舜水の名を聞き、興味を募らせます。その後、省菴は藩命による遊学のため、江戸に向かいます。
一方、朱舜水はベトナムで九死に一生を得た「安南の役」の後、1658(万治元)年8月に長崎入り(6回目)し、入徳から安東省菴のことを教えてもらいます。長崎を出発してから入徳に宛てた手紙には以下のように述べています。
「あなたは安東省菴をよく知っている。省菴は学問と見識ともにすぐれ、志気旺盛で実に羨ましい限りです。私は来夏、長崎に到って省菴と意見を交換し論議したいと思います。必ず、誠を披歴しあえると思います」
二人が未見ながらも実力を高く評価し合っていることがわかります。日本への亡命を希望しながら長崎で途方に暮れている朱舜水でしたが、相談された入徳は「長崎居住には、やはり日本人の助けが必要だ。安東省菴なら、きっと力になってくれるだろう」と応えたに違いありません。そして、実際に安東省菴の想像を超える献身によって、朱舜水の長崎居住が実現します。
次回は二人の師弟愛について触れていきます。