なぜ起業を選んだのか?
その当たりを知ってもらうため、今回はちょっと昔のことをお話しします。
遼寧省で過ごした少年時代
私は1984年、中国北部の遼寧省で生まれました。最初は「黄雪」(雪の降る日に生まれたので)という名前でしたが、あまりに女性らしいので、“丈夫に育つように”を込められて、「雪⇒磊」になりました(笑)。
父は専門学校の教師、母は高校の職員。私の故郷はとても田舎の村で、都会的な遊び場所がないので、小さい頃からよく外で遊んでいました。特にバスケットボールが好きで、高校までバスケット部でした。クラスでは背が一番低かったので、バスケットで身長伸ばしたかった…(笑)。
好きな言葉は、「石の上にも三年」、私の名前のとおりですね。
来日して日本語学校に入学
あまりに遊び過ぎたため、高校卒業したときは「三流大学」さえ入れなかった状況でした(涙)。そのとき、ちょうど日本に留学中の従兄が長期休暇で帰国していました。彼は日本のことを色々紹介してくれました。元々『スラムダンク』や『ドラえもん』などの日本アニメが好きだったし、アルバイトを頑張れば自分で生活費と学費を稼げると聞いて、思い切って日本留学を決めたのです!
最初は、横浜の日本語学校に入学。これまでサボってきた分を取り戻す決意で勉強に励みました。2年間の出席率は100%。日本語ゼロ⇒能力試験1級。そして頑張って茨城大学にも合格できました(歓喜)。
トップの写真は日本語学校でお世話になった先生です。そしてこちらの写真は、数年前にこの学校にかなり久しぶりに訪問したときのもの。先生はあまり変わってないのに、私は…。日本食があまりにも美味しくて、太ってしまいましたね(涙)。
茨城大学で留学生支援の原型ができる
学費の安さから国立大学に絞り、合格したことで急にできた茨城との縁。横浜から引っ越して来たばかりの頃は、まだ夜7時なのに道路に電灯もついてなくて、「うわ~田舎だな~」と感じたものです。ですが慣れたらとても住みやすく、どっぷりハマってしまいました(笑)。
経済に興味があったので人文学部経済経営コースを選び、研究テーマはその後の自分自身に大いに関係してくる「留学生のキャリア(就職・起業)支援」でした。大学2年の頃から留学生支援サークルを立ち上げます。その後、2011年に発生した東日本大震災をきっかけに「チャリティー中国語教室」を開講し、募金活動を行いました。
そして、このサークルがやがて大学卒業後の起業にもつながる土台となっていくのです。(続く)