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【徳川光圀】史局の開設と泰姫の死
「明暦の大火」を描いた田代幸春画『江戸火事図巻』

泰姫と結婚し水戸藩小石川邸で充実の日々を暮らしていた徳川光圀でしたが、結婚から3年後、「明暦の大火」が江戸の町を飲み込みます。難を逃れた光圀は奮起し新たな道を探っていきますが、大火によって失ったものはあまりに大き過ぎました。光圀に大きな影響をもたらした大火災について見て行きます。

江戸時代最悪の大火災

戦国時代が終わり太平の世となった江戸時代において、多くの人が亡くなる事態は飢饉や疫病、そして火災でした。江戸のように木造家屋が多い人口密集地では、一度燃えると次々に延焼してしまい、被害は大きくなるばかりだったのです。朱舜水も寛文長崎大火(1663年)の被害に遭っています。

「明暦の大火」は明暦3年1月18日(1657年3月2日)に発生。火元が本郷・小石川・麹町の3か所もあったことから、あっという間に被害が拡大。光圀たちが住んでいた小石川は、まさに火事の発生地点だったため、一帯はすぐに火の海になりました。大名屋敷には高価な文物がたくさんありましたが、光圀は命を優先して避難した結果、邸内の家族と家臣は全員無事でした。

「明暦の大火」を描いた田代幸春画『江戸火事図巻』

大火は3日にわたって燃え続け、江戸は壊滅。全高約60メートルという日本最大級だった江戸城大天守もこのとき焼失してしまいました。死者数は諸説ありますが3万から10万人と言われ、延焼面積・死者ともに江戸時代最悪の大火災となりました。

史局を駒込邸に開設

火災を逃れた光圀たちは水戸藩駒込邸に住むようになります。駒込邸も無傷ではなく、わずかに焼け残った屋舎がある程度でした。小石川邸は全焼し、それまで収集してきた多数の書物も焼失してしまいました。当然、光圀は落胆します。せっかく学問への情熱が高まり、水戸藩の教育振興に役立てようと考えていたのに無念です。

それでも、さすがは不屈の麒麟児。気持ちを切り替えて奮起します。大火から1ヶ月後の2月、光圀は駒込邸に歴史書編纂のための史局を設けます。これこそ後の彰考館、そして『大日本史』につながる修史事業の始まりでした。仮設小屋で史局員はわずか4名。光圀もまだ藩主ではないので、大きな裁量はありません。それなのにあえて史局を開設したのは、自分と家臣たちを鼓舞するため。

なにせ光圀の小石川邸だけでなく、幕府が保管していた大量の書籍・諸記録まで焼失。幕府の御用学者で知の巨人だった儒学者・林羅山もショックのあまり死去。光圀周辺の学者たちは、絶望的な状況に陥っていました。そうした状況でも、人の上に立つ者は道を示さなければなりません。光圀は史局を開設することで、周りに生きる目標を作り出したのでしょう。師を亡くして悲嘆に暮れていた林羅山の弟子たちも、光圀の意気に呼応して史局に加わっていきました。

泰姫死去、薬王院に埋葬される

書物焼失のショックで死去した林羅山のように、大火から逃れても後遺症のような形で命を落とす人も続出しました。その最たる人物が光圀の最愛の妻・泰姫でした。

泰姫は避難中に吸い込んだ煙で健康を害し、大火から半年ほど過ぎた8月頃から病に伏せるようになります。何度か小康状態になったものの全快せず、翌1658(万治元)年10月には赤痢にかかり、閏1223日に死去してしまいます。享年21歳。幸せな結婚生活は、わずか5年未満であっけなく終わってしまいました。「貴重な文物が焼失しても問題はない。そなたさえいれば私は何度でも再起できたのに……」、そう信じていた光圀に訪れたあまりに残酷な運命でした。光圀が泰姫を大切に想っていたことは、その後も御簾中(正室)を娶らなかったことでもうかがえます。

泰姫の遺体は水戸に送られ、薬王院(茨城県水戸市元吉田町)に葬られます。泰姫が眠る菩提寺として光圀は薬王院に深く帰依し、そのこともあり今も大きな境内を擁しています。泰姫は1677(延宝5)年には水戸徳川家墓所の瑞龍山(茨城県常陸太田市)に改葬されていますが、その後も薬王院の重要性は続き、1682(天和2)年にはここで泰姫25回忌の大斉会が行われました。

泰姫の菩提寺だった薬王院(水戸市元吉田町)


余談ですが、瑞龍山で唯一、水戸徳川家以外で葬られている人物が朱舜水です。生前では面会することが叶わなかった泰姫と朱舜水ですが、天国では光圀と夫婦そろって朱舜水の講義を受けていたら素敵ですね。

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