今回で『朱舜水の生涯~中国編』は最終回となります。明が滅亡してから15年、海をさすらいながらも反清復明を志してきた朱舜水でしたが、その夢が粉砕される時がやって来ます。失意に沈む彼は、抜け殻のような状態になって日本へ流れ着くのでした。
魯王、そして次男との再会
「安南の役」で危うく処刑されるところをなんとか生き延びた朱舜水は、1658年(59歳)8月にベトナムを出発し、6回目となる長崎訪問をします。そして、このとき安東省菴(あんどう せいあん)の名を初めて聞きます。彼は後に日本時代の恩人となる人物ですが、次回詳しく述べます。
10月に長崎からアモイに到着。記録は残っていませんが、朱舜水は魯王にようやく再会できたものと思われます。肌身離さず『魯王勅書』を携えていたおかげで、それに勇気づけられて「安南の役」さえ乗り越えて来ました。きっと朱舜水は魯王に会うなり、高揚しながら「さぁ、何なりとお命じください」と述べたことでしょう。
しかし、アモイは反清復明の主流である永暦帝と鄭成功の拠点であり、魯王の出る幕はありませんでした。
朱舜水が補佐したとしても、ほとんど何もできなかったに違いありません。
不完全燃焼の朱舜水でしたが、年が明けて1659年(60歳)の春、嬉しいことに次男 朱大咸がアモイに訪ねてきました。
父 朱舜水はほとんど海外に出掛けていたし、電話もメールもない時代によく消息がつかめたものです。ただ、朱舜水は筆まめで家族や友人に宛てた手紙が多く残っていますし、当時の伝達手段も予想以上に発達していたのかもしれません。
いずれにしろ父子は久しぶりの再会を喜び、故郷にいる長男 朱大成や後妻 陳氏ら家族の安否を確認したのでした。
おそらく面識がなかった朱舜水と鄭成功
ところで、反清復明の主流 鄭成功と非主流 朱舜水の関係はどうだったのでしょうか?
Wikipediaに加えて中国のネット情報でも、「朱舜水は鄭成功に派遣されて日本に赴いた」といった記述が散見されます。
しかし、これらの情報には慎重に接した方がいいです。
そもそも、二人の関係について言及された史料がほぼないため確かなことは不明です。
その少ない史料の中で、朱舜水自身の言葉が残っています。
「アモイに至り、“国姓爺”の陣に赴いたものの、武官・文官ともに礼教なく、危機感に欠けたところが目についた。この状況では反清復明は難しいと嘆き、面会はあきらめて帰った。」
英雄と名高い鄭成功の軍でさえ、朱舜水には烏合の衆に見えたようです。面会せずに帰ってしまいました。
また鄭成功の立場で考えても、当時の朱舜水は仕官経験が一度もない民間人に過ぎず、存在すら知らなかったと思われます。以上のことから、石原道博教授は「二人は直接の会見がないまま、南京攻略戦(北征)が始まった」と述べています。
それでも、真偽不明ながら鄭成功による朱舜水への書簡がいくつか発見されており、それが「朱舜水は鄭成功に派遣されて日本に赴いた」という情報が出てくる原因になっています。茨城県立図書館にも『鄭大木、朱舜水に与うる書状』fa-external-link(リンク先に画像あり)という書簡が保存されています。
どうやらこれらの書簡は後世に制作された偽書の可能性が高いのですが、それだけ『国性爺合戦』のスーパースター鄭成功の存在感は強く、彼に結び付けたいという人々の願望や関心がうかがえます。
次男の病死と南京攻略戦の大敗
1659年4月、鄭成功は南京を奪回するための北征を開始します。南京はもともと明朝の首都でした。第3代皇帝 永楽帝のときに北京に遷都されましたが、以降も副都として重要な都市であり続けました。鄭成功にとっても勉学に励んだ思い出深い都です。
1644年に明が滅亡してからは、ここ南京を拠点にして南明が開始されましたが、翌1645年に清朝によってあっさり陥落してしまいます。
それから約15年。南京を奪回することで形勢逆転の気運としたい。鄭成功はもとより漢人たちの悲願でした。
朱舜水もこの北征に次男 大咸とともに従軍します。このときすでに60歳。吐血の持病もあり、体力的にも行軍は厳しい年齢です。それでも反清復明の実現を最前線で見たいと思ったのでしょう。彼は第二軍に所属し、連絡員としてしんがりを務める本軍との間を何回も行き来していたようです。
北征軍は捲土重来の勢いで、道中の城や拠点を次々に落としていきました。そんな追い風ムードに乗った6月17日、次男 大咸が高熱を患います。5日間も高熱が続き、一度は平熱になったようにみえましたが、その夕方から再発し6月22日の朝、息をひきとりました。
朱舜水にとってこの3ヶ月間は、久しぶりに家族と過ごすことができた幸せなひとときでした。それが一転して死別の悲しみを味わうことになるとは、なんと運命の残酷なことでしょうか。
悲しみのどん底にいた朱舜水でしたが、同日に北征軍は鎮江(現江蘇省鎮江市)を攻略。長江を上れば、南京は目と鼻の先の距離。清軍は震えあがり、逆に北征軍の士気は天まで昇るほどの高まりでした。
しかし、天は彼らに味方しませんでした。
7月の南京攻略戦では清軍の奇襲を喰らい大敗してしまうのです。
鄭成功たちは長江を下って逃走したものの、兵の数はみるみるうちになくなっていきました。
これ以降の南明や鄭成功が辿った運命については、こちらをご覧下さいfa-external-link。
夷風胡俗を嫌い、日本亡命へ
朱舜水もなんとか逃げ延びましたが、心は絶望でいっぱいでした。息子に先立たれ、反清復明の望みも目の前で粉砕されてしまいました。このまま中国に残れば清朝の軍門に下り、夷風胡俗に従わなければなりません。それは耐え難い屈辱でした。
満州族の清朝が漢人男性に強制した代表的な風習が、弁髪(べんぱつ)です。前頭部を剃り、後頭部を伸ばして三編みにするものです。
儒教では毛髪を含む身体を傷付けることは「不孝」とされ、タブーでした。そのため、漢人は弁髪に抵抗しましたが、清朝は拒否する者は死刑にするほど厳しくのぞみました。成す術もなく弁髪を受け入れていく漢人たちでしたが、何事にも妥協ができない朱舜水にとっては不可能なことでした。中国に見切りをつけ、長崎へ向かうことにします。
抜け殻のような状態になって大陸を後にした朱舜水。もはや特別な目標もありません。長崎で静かに暮らして、そこで死のうと思っていました。
しかし、運命とは誠に不思議なもの。思いがけない出会いと、彼にしかできない大きな役割が、日本で待っているのでした。
(『朱舜水の生涯~中国編』完)