1654(承応3)年、徳川光圀の使者が長崎にやって来ます。目的は朱舜水を学問の師として水戸藩に招くことでした。
ついに、この連載のもう一人の主人公 徳川光圀(水戸黄門)が登場です。
なぜ光圀は、朱舜水の教えを欲したのでしょうか?
彼を突き動かす原動力は何だったのか?
朱舜水に出会うまでの人生を見ていきます。まず今回は光圀の複雑な生い立ちからです。
複雑な生い立ち
光圀の父である初代水戸藩主の徳川頼房(よりふさ)は、徳川家康の十一男。つまり、光圀は「家康の孫」に当たります。江戸幕府を開いた家康の孫という血統、御三家水戸徳川家という家柄。この尽き抜けた境遇ならさぞ不自由のない生活を送ったように思えますが、話はそう簡単ではありません。むしろ良家ならではの複雑な思惑がからみ、光圀は鬱屈した幼少期・青年期を過ごすことになります。
光圀の母は久子(高瀬局/久昌院)といいます。久子の母が奥向き(藩主の妻子が住む場所)で働いていたため一緒に出入りしていたところ、頼房が見初めたことで光圀を懐妊します。しかし、正式な側室ではなかったことで、水戸藩重臣の三木之次(みき ゆきつぐ)に命じて堕胎させることに。
ところが三木夫妻は主命に背いて出産を助け、1628(寛永5)年、光圀は水戸の三木邸で生まれました。そして、ひっそりと三木夫妻によって4歳まで育てられます。この光圀生誕の地には現在、水戸黄門神社(義公祠堂)が建てられています。
幼名は長丸、千代松、徳亮。元服してから光国を名乗り、晩年に光圀と改字しますが、本連載では光圀で通します。
なお、「光圀」と改字したことにも朱舜水の影響があると考えられており、いずれ記事にしたいと思います。
世子になったゆえの悩み
ちなみに、三木夫妻が主命に背いて久子の出産を助けたのは、実は光圀で2度目のこと。6年前にも光圀の兄である松平頼重(よりしげ)を生んでおり、別のところで育てられていました。
1632(寛永9)年、光圀5歳のときに水戸城に迎えられ、翌年には世子(世継ぎ)に決定します。その後、江戸小石川の藩邸に移り、世子教育を受けることになります。6歳上の兄頼重とはこの頃に初めて会います。
「長子相続」が原則だった江戸時代において、弟の光圀が世子となったことは異例の出来事でした。頼重が疱瘡を患い寿命が短いと判断されたから、という説もありますが実はよくわかっていません。光圀は幼少から非凡だったと言われていますが、兄頼重も文武両道で世子としての器は十分でした。加えて、二人の兄弟仲は悪くなかっただけに「なぜ兄を差し置いて、俺が世子に選ばれたのだ?」という思いは、若き光圀を大いに悩ませていきます。
父 徳川頼房の人物像
水戸藩初代藩主の徳川頼房は名君の評価もある一方で、以上の事柄でも感じられますが妻子たちへの愛情が希薄で、弟の光圀を世子に選んだり不可解な部分があります。
ただ、これらの決定には江戸幕府第3代将軍 徳川家光の意向もあったと言われています。頼房は家康の“子供”で、家光は“孫”ですが、年齢差はなんと1歳。それもあり二人は幼少から仲が良く、家光が将軍になってからも頼房は何かと頼りにされていました。ちなみに、光圀の名前も、家光から「光」の字を与えられて名付けたものです。
とはいえ、「江戸幕府」という巨大な権力組織と濃密な関係になるにつれ、頼房が一存で決められない複雑な事情も多々出てきたのかもしれません。
そんな感じで評価がモヤっとしている頼房ですが、冲方丁(うぶかた とう)氏は小説『光圀伝』に独自の解釈を盛り込み、頼房の沈黙に隠された妻久子や息子たちへの愛情を描いています。本書は数少ない光圀の一生を描いた作品であり、重厚なボリュームですが読みやすくオススメです。
本連載でも、諸国漫遊するフィクションの「水戸黄門」とは別に、史実の徳川光圀にも注目して行きます。
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