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祇園寺を開山した中国からの渡来僧、東皐心越
祇園寺に伝わる東皐心越の肖像画

徳川光圀と朱舜水の交流は、今から約350年前に育まれた日本人と中国人のエピソード。実は光圀にはもう一人、交流を重ねた重要な中国人がいました。それが今回の主人公、曹洞宗の禅僧である東皐心越(とうこう しんえつ)です。しかも23rd Studioの近くにある祇園寺が舞台。とても深い縁を感じる心越の生涯をご紹介します。

愛国の義僧

心越は1639年、明朝の浙江省金華府浦江で次男として誕生しました。出家前の姓は蒋氏で名前は不明。後に名乗る「東皐」は号で、「心越」は字(あざな)になります。朱舜水の故郷である余姚からは離れていますが、同じ浙江省の出身。ちなみに、このとき朱舜水はすでに39歳でした。

当時の明朝は政治腐敗で末期症状。そこに北方から満州族の清朝が怒涛の勢いで侵入。心越が生まれた5年後の1644年には、276年続いた明朝はついに滅亡してしまいます。 そのまま清朝は各都市を攻撃。中国大陸は大混乱を極めましたが、心越の両親は教育を重視したこともあり、8歳で蘇州の報恩講寺に入ります。

成長した心越は各地を行脚する中で、動乱によって困窮した大勢の人々を目にします。20歳になったとき、「天下泰平のためには、たとえ僧侶の身であっても戦うべきだ」と考え、愛国の義僧として反清復明の闘争に身を投じていきました。「心越」はこの頃から名乗った字で、「我が心は越(浙江省の古名)にあり」という意味が込められています。

敗戦の果てに禅林へ帰る

この頃、「反清復明」闘争のリーダーは「国姓爺」鄭成功で、彼が指揮する戦いに心越も加わっていたようです。しかし、清朝の力は強く、鄭成功の南京攻略戦が失敗して以降は、このまま戦いを続けるべきか悩み続けます。

その果てに選択した道は、禅林に帰ることでした。30歳になったときに杭州の顕孝禅寺に身を寄せ、修行の日々を過ごします。ここで3年過ごした後、杭州を代表する景勝 西湖の山中にある永福寺に身を移します。杭州は清朝に対して無血開城をしたため、幸運なことに殺戮と破壊を免れていました。おかげで南宋時代に首都として繁栄した文化がそのまま残り、それが心越の才能を開花させるのに大いに役立ちました。

心越を育んだ杭州。写真は西湖に沈む夕日

中国に別れを告げ、長崎へ

しかし、そうした落ち着いた日々に暗雲が立ち込めます。1673年、「三藩の乱」が発生し、再び大陸は大混乱に陥ります。もはや中国に居場所なしと判断した心越は、日本に逃れることを決意するのでした。

明末清初、戦乱を逃れて日本に渡来した唐人(中国人)はかなりの数がいましたが、折悪く日本は鎖国政策を実施しており自由な渡航は禁止されていました。異国人は長崎に入ることが必須で、心越も1676年に入港。しかし、長崎奉行所から上陸を拒否されてしまい、翌1677年にようやく上陸を果たします。

これには中国僧によって建てられた日本初の唐寺(とうでら)興福寺の僧たちの尽力がありました。興福寺は黄檗宗(おうばくしゅう)で心越は曹洞宗と宗派は異なりましたが、興福寺に浙江省出身者が多くいたことが大きかったようです。心越39歳のことでした。以後、心越は興福寺に住まうことになります。

奉行所に幽閉されるも、徳川光圀に救われる

多方面で才能を発揮した東皐心越

長崎に住むようになってから2年が経った頃、黄檗宗の大本山である萬福寺に招かれ京都の宇治を訪問します。そのまま各地を遊歴し日本の見聞を広めました。しかし、当時は日本人でさえ移動の自由が制限されていた時代。まして異国人である心越の遊歴は重罪とみなされ、長崎に戻ったときに奉行所に捕縛され幽閉されてしまいます。

幽閉は半年にも及び絶体絶命のピンチに陥りましたが、窮地を救ったのが水戸藩主の徳川光圀(当時54歳)でした。光圀によって水戸藩に招聘されていた朱舜水はすでに80歳で病床にあり(この2年後に死去)、その後継者となる明の遺臣を探していたのです。また、当時の光圀は水戸藩において廃仏毀釈(寺院や僧侶の大量廃止)を実施し、仏教に厳しい政策をとっていました。ただ、これは弾圧というより、その頃乱立していた怪しげな寺院を淘汰するためでした。むしろ由緒ある寺院を盛り立てて領民の拠り所にしたいという思いがあり、その仏教指導者として心越は最適の人材だったのです。

通常であれば奉行所に囚われた異国人は悲惨な運命をたどりましたが、徳川光圀という有力藩主の目に留まったのは心越にとって幸運なことでした。1681(天和元)年正月に無事に釈放されます。7月には江戸に向かい、水戸藩上屋敷(小石川邸)にて光圀と対面。学問や芸術、茶道、海外情勢などを思う存分語り合い、終生にわたる友誼を深めていきました。

水戸へ移り、天徳寺(現祇園寺)を開山

江戸で1年半ほど暮らした後、1683(天和3)年には水戸の天徳寺に移ります。当時の天徳寺は今の祇園寺があるところに位置していました。私たちになじみ深い地に、ついに心越がやって来たわけです。ここで曹洞宗の神髄である禅、さらには篆刻・詩文・書画・古琴といった芸術文化を伝えていきました。

東皐心越の印章

ちなみに篆刻とは印章を作成する技術で、すでに紀元前5世紀の古代中国には存在していました。日本には明末清初に渡ってきた渡来僧によって広められましたが、「日本篆刻の祖」と呼ばれる重要人物は二人おり、一人は浙江省出身で長崎では朱舜水と同居していたこともある独立性易(どくりゅう しょうえき)。そしてもう一人が心越です。杭州などを中心に豊富な人生経験で培われた心越の多才は、こうして日本に受け継がれていきました。

心越は光圀に従って、水戸藩領内を旅して周ることもありました。水戸藩主の墓所であり父の頼房、妻の泰姫、さらには朱舜水も眠っている常陸太田の瑞龍山に墓参りしたこともあります。

そして1692(元禄5)年10月、徳川光圀を開基、東皐心越を開山として、寿昌山天徳寺の開堂式が晴れやかに執り行われました。同門である曹洞宗の僧侶ら1700人が参集し、全国諸宗の高僧からもお祝いが贈られ一大盛事であったと伝えられています。中国から日本に至るまで様々な困難がありながら、道を切り開いてきた心越。充実を極めた54歳の錦秋でした。

心越示寂と今の祇園寺に至るまで

しかし、その3年後の1695(元禄8)年から体調を崩すようになります。翌年には光圀の勧めで、江戸の菊坂にある長泉寺で休養したり、箱根温泉で湯治を行いました。天徳寺に戻ってからも病状は回復せず、水戸に帰藩した光圀がお見舞いするも虚しく9月に示寂(高僧が亡くなること)しました。享年57歳。光圀より11歳も若いのに先に逝ってしまった心越。大切な人がどんどん先に亡くなっていく光圀の悲しみは、相当に深いものだったことでしょう。

1712(正徳2)年、「天徳寺」の寺籍は河和田村(現 水戸市河和田町)へ移され、元の天徳寺は
祇園寺と改めて今日に至ります。

心越が開山した祇園寺

地元に親しまれている祇園寺ですが、開山の心越が中国からの渡来僧だったことまで知っている人は少ないでしょう。350年前にこのような日中交流があったことを、ぜひ多くの人に知ってほしいと願っています。

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