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【朱舜水】明朝の衰亡とともに歩んだ青年期、壮年期
現在の余姚(浙江省寧波市)

徳川光圀が学問の師として招聘した朱舜水とはどういう人物だったのでしょうか?
故石原道博 茨城大学名誉教授の著書『朱舜水』(吉川弘文館、1961年)をもとに、彼の生涯を紹介していきます。

浙江省余姚で誕生

朱舜水は1600(万暦28)年10月12日、明の浙江省余姚(よよう)にて、父 朱正、母金氏の三男として誕生しました。之瑜(しゆ)というのが名前で、舜水は号になります。

1607(万暦35)年、8歳のときに父が死去し、加えて大規模な飢饉が続いたため生活は困窮しました。家族は明朝の武官だった兄を頼りに、松江府(しょうこうふ、現上海市松江区)に転居します。父や兄を含め一族には明朝の高官だったものも多く、それなりの士大夫階級でした。

余姚で暮らした期間は短いものでしたが、彼は故郷に深い感情を持っていました。その最たるものが「舜水」という号(雅号)です。これは故郷を流れる「余姚江」のことで、徳川光圀と対面し水戸藩門弟たちに学問を教えるときに名乗ったものです。

トップ画像は現在の余姚で、浙江省寧波市に属しています。中国の経済成長に合わせて高層ビルも林立していますが、写真のような風光明媚な景勝地も健在です。朱舜水は郷土の偉人として尊敬されており、朱舜水記念堂も建てられています。

余姚の朱舜水記念堂

儒学を学び、所帯を持つ

当時の松江府は全中国15大都市のひとつに数えられる大都市でした。そこで儒学生となり、学問に打ち込みます。葉氏と結婚し、1618(万暦46)年19歳のときに長男である朱大成が誕生しました。

学業は優秀ですぐにでも高官に就けるチャンスがありましたが、明朝官界は腐敗を極めており、仕官するのが馬鹿馬鹿しくなっていきました。彼はいつも妻子に「たとえ高官に就いても自分は妥協ができないため、お上に建言することで逆に罪を得るかもしれない。数年ともたずに飛び出すことになるだろう」と述べていました。

その後、妻の葉氏は亡くなったのか、後妻である陳氏を娶り、35歳頃に娘が生まれています。

1638(崇禎11)年39歳のとき、「文武全才第一」の誉れとともに、恩貢生(国の慶典などの際に挙げられる特待生)に選ばれています。以降、明朝とその後継である南明で、計12回も仕官の推挙を受けましたがすべて固辞しました。官界への嫌悪ぶりが伝わってきますが、これは当時の中国情勢を知れば、朱舜水の気持ちも理解できるでしょう。

松江にもある朱舜水記念堂

北方から押し寄せる女真族の「後金」

当時の明朝は内憂外患に直面し、風前の灯火でした。内憂は宦官による重度の政治腐敗で、外患は北方から押し寄せる異民族王朝の「後金」のこと。

そもそも明朝は異民族との戦いで始まり、終わった王朝といえます。明朝は1368年、朱元璋によって建国。当時の宿敵はモンゴルでした。モンゴルはチンギス・ハーンを始祖にユーラシア大陸の大半を領土にした超大国。その後は分裂して「元朝」になり、日本にも元寇として攻め込んできましたが、末期は急速に弱体化。漢民族の明朝は、ようやく中原からモンゴルを追い出すことに成功します。

明の太平は200年以上も続きましたが、その平穏はまたもや異民族によって崩されます。それが1616年、満州(中国東北部)で女真族のヌルハチによって建国された「後金」でした。

後金の騎兵と明の歩兵による戦闘

 

1619年、天下分け目の「サルフの戦い」が起こります(現在の遼寧省撫順)。後金軍6万に対し、明軍は16万。圧倒的な戦力差があったにもかかわらず、後金軍は雪上のゲリラ戦によって明軍を撃破。これが明の衰亡の始まりになります。朱舜水はこのとき20歳、長男が生まれたばかりの頃でした。

明滅亡と清による中国統治の開始

大国の明に勝利したことで後金の勢いに火が付き、勢力は東北部一帯に拡大。1626年に太祖ヌルハチが死去すると、子のホンタイジが後継となり、1636年に民族名を女真族から満州族に変え、国号を後金から「清」に改めました。

清の侵攻だけでも大変なのに、各地で農民反乱が頻発します。明朝政府にはもはやそれらを鎮圧する力は残っておらず、やがて農民反乱の中から李自成(り じせい)が台頭してきます。李自成は主要都市を次々に落とし、北京まで進軍。そして1644年、李自成軍の包囲の前に崇禎帝は自殺し、明朝は滅亡します。

その李自成ですら、すぐに北京にやってきた清軍に蹴散らされ、清による中国支配が宣言されます。朱舜水45歳のときでした。

燃え上がる愛国心

朱舜水は十回以上も仕官の推挙を固辞しましだが、それは愛国心がなかったわけではなく、強い愛国者だったからこそ、官界の腐敗が許せませんでした。そして、いざ国が滅亡するのを目の当たりにしたとき、彼の愛国心はさらに燃え上がります。

中国南部にいた明の皇族と官僚は「南明」を建て、清に抵抗する道を選びます。朱舜水はこれに協力し、それが後に日本につながっていくのです。

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