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朱舜水研究の第一人者、故石原道博 茨城大学名誉教授

徳川光圀が学問の師として招聘した朱舜水とはどういう人物だったのでしょうか。

ネットで検索すると、Wikipediaをはじめ多くの情報がヒットします。しかし、明朝が滅亡してから日本に渡来し、光圀に出会った情報がほとんどで、中国で過ごした青年期などの情報が皆無に等しいです。

ほとんどない朱舜水の関連書籍

この情報の乏しさは、出版されている朱舜水関連の書籍、研究書が極端に少ないのが原因です。
石原道博(いしはら みちひろ)氏の『朱舜水』(吉川弘文館、1961年)が唯一といえるものでしょう。

石原氏は中国の史料をも研究し、朱舜水の中国時代、日本時代を通して彼の一生を記しました。本書はかなりの完成度のため、その後の朱舜水研究に大きな影響を与え、中国大陸、台湾の学界での評価も高いです。

とはいえ本書は研究書に分類されるものなので、普通に読むには難解です。そこで次回以降、本書をもとに色々な情報を加えながら、なるべく平易にして朱舜水の生涯を紹介していきます。

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茨城大学名誉教授だった石原道博氏

石原道博氏は1910(明治43)年生まれ。東京府立一中から旧制一高に進学したときに校舎にあった「朱舜水先生終焉の地」の碑(現東京大学農学部内に現存)を見つけます。これが石原青年と朱舜水との縁の初めになります。

1935(昭和10)年、東京大学文学部東洋史学科卒。卒論は「明末の日本乞師」で、学生の頃から鄭成功や朱舜水を研究していました。

1943(昭和18)年に招集を受け、北満州へ出征。1945(昭和20)年に終戦を迎えるも、ソ連の捕虜となりシベリアに抑留。1948(昭和23)年にようやく解放され、日本に帰国。
復員後は旧制水戸高校(1949年に新制茨城大学へ改組)で教鞭を取ることになります。

茨城に来てからは戦災を逃れた彰考館の資料に接したり、常陸太田の瑞龍山にある朱舜水の墓にも赴き、研究を大いに前進させました。

その後も茨城大学で助教授、教授を務め、名誉教授となり1976(昭和51)年65歳で退官します。退官後も長生し、2010(平成22)年99歳で死去。明治・大正・昭和・平成の4時代を生き抜いた人生でした。

朱舜水研究の成果がもう少し世に出てほしい

石原氏の後の時代になっても、もちろん朱舜水研究は続けられてきました。1986年には柳川古文書館(福岡県柳川市)が「安東家史料目録」を学界に公開してから、朱舜水の書簡・筆語などが続々と発掘され、朱舜水研究ブームが起こったほどです。

茨城県でも茨城大学、茨城県立歴史館、徳川ミュージアムなどで研究が行われていますし、中国大陸や台湾にも研究者がそれなりにいます。ただ、言葉や政治的な壁もあり、日本と中華圏をまたがる学術交流が行われるようになったのは、1990年代以降とつい最近のこと。実のところ、朱舜水研究はまだ途上にある段階と言えます。

そして、一般人が接する情報についてはほとんど動きがないまま今日に至ります。石原氏の著書が出版されてからすでに60年が経っており、水戸でも朱舜水が知られていないのもうなずけます。

 

話は脱線しますが、『戦国BASARA』とか『刀剣乱舞』とかあるじゃないですか。戦国武将や刀剣がイケメン化したり、女体化したり、ロボット化(本多忠勝)したり、「Let's party!」(伊達政宗)とか言っちゃったりするので、本職の歴史家さんたちが見たら眉をひそめると思いますが……。

でも、過去の人物が忘れられないって大事なことだと思うんですよね。それが小説であれ、ゲームであれ、マンガであれ。今や地元水戸でさえ、徳川光圀と朱舜水の交流が風化してしまっている現状を考えると、余計にそう思ってしまいます。

だからこそ私たちの記事や、今や2店舗だけになってしまった「水戸藩ラーメン」などにもきっと意味があるのではないか、そう思いながら活動しています。

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