福岡県柳川市。市内を掘割(ほりわり)が縦横に流れることから水の都や水郷と呼ばれています。どんこ舟に乗って町を巡る川下りは柳川観光に欠かせません。ここは江戸時代、柳川藩と呼ばれており、朱舜水の一番弟子で献身的に師を支えた安東省菴(あんどう せいあん)fa-external-linkが所属していた藩です。1665(寛文5)年6月、徳川光圀に招聘され、江戸に行くことになった朱舜水は柳川にいる省菴を訪れ、別れの挨拶をするのでした。朱舜水66歳、省菴44歳でした。
省菴に感謝の詩を贈る
江戸時代が始まった頃に柳川城は大きく拡張され、そのとき掘割が整備されました。当初から生活用水や水上道路として利用されており、朱舜水もどんこ舟が行き来する様子を見たかもしれません。
朱舜水が省菴宅を訪れると、省菴とその妻が出迎えてくれました。実は省菴は前年に結婚したばかりの新婚。43歳で結婚したので、江戸時代においては超々晩婚になります。元々学問一筋で結婚のことなど眼中になく、ひたすら朱舜水の世話に明け暮れていた省菴でしたが、朱舜水は「結婚して親を安心させるのは、儒学における『孝』の大事なこと。『孝』はひとつでも欠けると他のことがすべて無益になってしまうぞ!」と忠告。この忠告を素直に聞いた省菴は妻を娶り、子を成したのでした。
ちなみに省菴の子孫である安東家は代々、柳川藩の教授を務め学問向上に寄与していきます。朱舜水の忠告がなかったらこの血筋も生まれていなかったわけですから、人が紡ぐ縁は本当に不思議なものです。
朱舜水はこれまでの労に感謝し、以下の詩を省菴に贈りました。
一泓秋水千竿竹 静得労生半日身
一泓の秋水(深い澄み渡った堀の水) 千竿の竹(たくさんの竹)
静め得たり(落ち着くことできた) 労生半日の身(拙老の身はしばらく)
「省菴、あなたのおかげで異国である日本において、落ち着いた生活を送ることができた。あなたの献身は、まさに柳川の堀の水のように深く澄み渡り、たくさんの竹のように尊く手厚いものだった。どんなに感謝しても足りない。水戸の光圀公へ招かれるという思いがけない道が開けたが、これもあなたのおかげだ。どうか家族と一緒に息災に」。詩は短いものですが、そこには大きな謝意が込められていました。
省菴は「もったいないお言葉です。江戸に行ってからも手紙を書きます。先生こそ、お身体ご自愛ください」と述べました。
二人の師弟はこの後、何度も手紙をやり取りして近況を伝え合いますが、移動が現代のようにはいかない江戸時代、実際に会うのはこれが最後になってしまいます。
朱舜水がこの後に出会う徳川光圀は理想的な為政者として映りますが、そこは君主と賓客の関係性。一方、省菴とは師弟関係に加えて、心から色々なことを話し合える友人の間柄でした。別れは二人にとって、さぞ名残惜しかったことでしょう。
三体の孔子像を贈る
そのほか朱舜水が省菴に贈ったものに、「三体の孔子像」があります。この像は朱舜水が中国から持ってきたもので、三体は後にそれぞれ別の持ち主に渡り、数奇な旅を経ながらも全て現存しています。
孔子像は高さ38センチほどで、真ん中の像は現代に至るまでずっと安東家に伝わっているものです。右の像は柳川藩の藩校・伝習館が開設するときに安東家から寄贈され、今も藩校の後身である福岡県立伝習館高校にあります。
左の像は江戸時代に安東家から柳川藩士西原家に移り、明治時代に同家と婚姻関係にあった子爵曾我家に移り、そこから皇太子(後の大正天皇)に献上されます。その後、関東大震災で被災した湯島聖堂(斯文会)に下賜されました。
以下は柳川古文書館。安東家が残した貴重な文物が数多く収蔵されており、ときどき朱舜水関連の特別展を開催しています。
省菴の墓と三忠苑
省菴は柳川藩主立花氏3代に仕え、儒学の教育に貢献。『三忠伝』という著書を残し、1701(元禄14)年80歳で没しました。柳川市旭町の浄華寺には省菴のお墓と、事績を顕彰するため1978(昭和53)年に造園された枯山水「三忠苑」があります。
以下は「三忠苑」。右手にある3つの巨石は省菴、朱舜水、徳川光圀を表しており、砂敷は東シナ海、灯篭は長崎、そして舟形石は朱舜水の渡来を表現しています。左手に見える敷地には省菴を含め、6代にわたる子孫とその家族、および門弟たちの墓石があります。
安東省菴は儒学者としての実績に加え、意図せず朱舜水というバトンを徳川光圀につなぐという功績も残しました。柳川を観光した際は、ぜひ省菴にも注目してみてください。
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