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【朱舜水】長崎生活② 当時の風景

朱舜水が長崎に住んでいた時代から350年ほど経っていますが、現存している建物もあります。それらを取材しながら、当時の風景や彼の生活ぶりを想像してみました。下記の地図を参考にしてお読みください。

朱舜水の長崎生活地図。青色は彼が実際に訪問した地。

住居は長崎奉行所の近くか?

朱舜水が長崎のどこに住んでいたのか、はっきりした情報はありません。ただ、いくら滞在を許可されたとはいえ鎖国下の異国人なので、本博多町(現 万才町の一部)にあった長崎奉行所(地図①)の目の届くところに住んでいたと思われます。

役所に監視される生活は落ち着かなかったと思いますが、近くの酒屋町(現 栄町、魚の町)には同郷で頼りになる潁川入徳(えがわ にゅうとく)の医院(地図②)があったので、むしろ都合が良かったかもしれません。

大火で焼失し、再建された長崎奉行所

さて、以前の記事で長崎奉行所を復元した施設があると紹介しましたが、その場所は地図⑦にあります。おやっ、地図①ではない。一体どういうことでしょうか? ここで長崎奉行所に起こった出来事について触れます。

鎖国下でも海外に門戸を開いていた長崎は超重要都市であり、江戸幕府の直轄地でした。そのため長崎奉行所は単なる役所ではなく、行政、司法、外交、貿易、キリシタンの取り締まりなど、幅広い業務を担っていました。元々は地図①のところにありましたが、1663(寛文3)年に発生した「寛文長崎大火」で焼失してしまいます。

その後、奉行所は再建し、加えて機能拡張のため近くに「西役所」(地図⑥)も設置します。しかし、隣接していると、また火災が発生したときにどちらも焼失してしまう。そこで、1673(延宝元)年に元々の部分を離れた立山の地に移転させ、「立山役所」(地図⑦)と改称。以降、長崎奉行所はこの二体制になりました。ただ、朱舜水は1665(寛文5)年に江戸へ移住しているので、この変化は知らなかったでしょう。

時は下って現代。立山役所があった場所から奉行所関連の様々な品が発掘されました。長崎県と長崎市は歴史資料や考証に基づいて忠実に復元し、長崎奉行所ゾーンとして整備。さらに隣に歴史文化展示ゾーンを設置し、全体で「長崎歴史文化博物館」として2005年にオープンしました。

奉行所の復元度が素晴らしい「長崎歴史文化博物館」。

 

とにかくこの博物館はオススメです。史料の豊富さはもちろん、長崎奉行所ゾーンは畳が敷かれた内部にも入ることができ、江戸時代にタイムスリップしたような感覚を楽しめます。長崎を旅行したら、絶対に訪れてほしいスポットのひとつです。

奉行所内部も見事に復元されている。

大火で住居焼失し、晧台寺の軒下に避難

長崎奉行所を焼失させた寛文長崎大火は、朱舜水が住んでいた住居をも灰にしました。「火災酷烈、全崎を挙げて焦土」と記録に残しており、このことからも長崎奉行所の近くに住んでいたことは間違いなさそうです。朱舜水が避難したのは、晧台寺(こうだいじ、地図④)の軒下で、そこで雨露を凌いでいました。おそらく境内は彼だけでなく、避難してきた町民たちでいっぱいだったと思われます。それにしても、朱舜水は中国やベトナムで何度も死にそうな経験をしていますが、せっかく日本に落ち着いたと思ったらこの大火に被災。本当に波乱万丈の人生です。

晧台寺の総門。園内には長崎で活躍した著名人が数多く眠っている。

 

長崎大火の凶報は、柳川藩にいた安東省菴にも届きます。このとき省菴は重病で危篤の妹を看病していましたが、老師である朱舜水の苦境を聞くと、妹を置いて長崎へ駆け付けます(さすがに看病は親族に引き継いだと思いますが……)。

そして朱舜水を見舞うだけでなく、新居まで建ててあげて柳川に帰って行きました。「私が老師を養っているのは、皆が知っている事実です。その老師が路頭で餓死してしまったら、私の面目が立ちません」と述べた省菴。彼の献身ぶりにはいつも畏敬の念を覚えます。

日本初の唐寺、興福寺

最後に紹介するのは興福寺(こうふくじ、地図⑤)。朱舜水がここを訪れたという記録はありませんが、きっと足を運んでいるはず。なぜなら、ここは中国と深い関係がある寺。長崎に住む唐人(中国人)の参拝のために、中国僧によって建てられた唐寺(とうでら)だからです。しかも、日本における唐寺はここが初めてになります。

黙子如定によって建てられた大雄宝殿(本堂)。

 

興福寺は1620(元和6)年、中国から渡来した真円によって創建されました。確かに、屋根瓦の形状、色合いなどちょっと見ただけでも中国様式が強く出ています。

儒学者である朱舜水は、インド発祥の宗教である仏教とは距離をおいていたと思いますが、日本という異国で暮らす唐人同士、交流があったと考えるのが自然でしょう。

ここの2代目住職を務めた黙子如定(もくす にょじょう)が眼鏡橋(地図③)を架け、以降ずっと長崎のシンボルになっています。また、入徳医院で同居人だった戴笠は、興福寺で出家して独立性易(どくりゅう しょうえき)と名乗ります。

ちなみに独立性易を得度した高僧が隠元(いんげん、1592年~1673年)。福建省出身で日本からの熱烈な要請を受けて渡来。黄檗宗(おうばくしゅう)の開祖となり、隠元が日本に持ち込んだという逸話から「インゲンマメ」にも名を残す仏教史における巨人の一人です。1654(承応3)年、隠元が興福寺に入ったときは、彼の高徳を慕う僧や学者たちが雲集し、数千人が駆け付けるほどだったと言われています。翌1655(明暦元)年から隠元は近畿での活動が中心になったため、朱舜水は会っていないと思いますが、その名声は直に聞いていたことでしょう。

これは興福寺の入口となる朱塗りの山門。隠元和尚の肖像画が掛けられています。なんだかアーティストのポスターみたいですね。DJにも見えてきました(;^ω^)。お寺にこういうのは珍しい。これも日本様式にはない唐寺の特徴なのかもしれません。

さて、色々ありながらも朱舜水はそれなりに長崎生活を過ごしていたと思います。気づけば5年の歳月が流れていました。彼ももう65歳。このまま長崎で生を終えるのも悪くない。そう思っていた彼の人生が一変する出来事が訪れます。ついに来るのです。徳川光圀の使者が……。以降、乞うご期待。

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