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【朱舜水】長崎生活① 明朝文人の装いをする

幕府から正式に日本滞在を許可され、安東省菴(あんどう せいあん)から生活費を得たことで朱舜水の生活は落ち着き、長崎に5年ほど住むことになります。しかし、石原道博教授の著書では長崎生活のことはほとんど触れられず、すぐに江戸の話になります。そこそこ長く住んだ割にあっけなくて残念です。そこで実際に長崎を取材し、ゆかりの地を訪ねながら、朱舜水の長崎生活を想像してみました。今回は服装について述べます。

僧装を勧められるも断る

海外交易に奔走していた頃の朱舜水は、おそらく動きやすい海商風の装いをしていたと思われます。その後、長崎に住むようになってからは、身近で入手できる和服を着たこともあったでしょう。

そんなある日、入徳医院で同居人だった独立性易(どくりゅう しょうえき)から、「あなたも僧の装いをしたらどうか?」と服装についてアドバイスを受けました。
遠まわしに出家を勧めたのかもしれませんが、朱舜水は断っています。何より頭髪を剃ることに抵抗があったようです。
儒教では毛髪を含む身体を傷付けることは「不孝」とされ、タブーでした。
清朝が強制した弁髪を断固拒否した程なので、僧装を断ったのも納得です。

爪を長く伸ばすのは文人のシンボル

結局は、明朝文人の衣服を着ることに落ち着いたようです。慣れた着心地で落ち着いたでしょうし、誇り高き中華世界の遺臣という矜持もあったでしょう。どんな装いをしていたかは、肖像画を見ればわかります。

道服をまとい、貴人が用いる紗帽(さぼう)をかぶり、爪を長く伸ばしています
石原教授によれば、爪を長く伸ばすのは文人のシンボルで、筆硯に水を入れるとき、爪ですくって入れる用途もあったとのこと。付け爪を利用することもあったようです。

この肖像画は後年、徳川光圀の命によって描かれたものですが、長崎に住んでいた頃からこのような衣装だったと思われます。中国から持参してきた服が古くなったときは、長崎の呉服屋に新しいものを作らせていたかもしれません。

また上の写真は、肖像画を元にして作成された木彫の座像です。高さは76cmで、この像でも爪は長く伸びています。ひたいのしわ、垂れ下がったひげがリアルに彫られており、老師としての静かな威厳と、亡国の遺臣としての寂しさが表現されています。元は水戸徳川家の墓所である瑞龍山(常陸太田市)にありましたが、今は徳川ミュージアム(水戸市)で常設展示されています。

次回は、当時から現存している寺院や施設などを訪ねながら、朱舜水の長崎生活を想像していきます。

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