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【徳川光圀と朱舜水】何度も固辞するも、ついに光圀の招聘を受諾
小宅生順が朱舜水との筆談内容をまとめた『西遊手録』

朱舜水サイド この記事からの続き
徳川光圀サイド この記事からの続き

1664(寛文4)年、朱舜水65歳、長崎に亡命してから6年が経ち、ここを終の棲家としようと思っていたときに、徳川光圀の命を受けた小宅生順(おやけ せいじゅん)が長崎にやってきます。小宅生順このとき28歳。儒学を学ぶものとして、中国の大儒に会えることは大きな喜びでした。そして朱舜水の人物像を見極め、招聘に応じてくれそうかを探るミッションに挑みます。

5回に及ぶ筆談会見

日本人と中国人では言葉は通じませんが、当時の武士階級は漢文教育を受けていたため、筆談での意思疎通が可能でした。小宅生順が朱舜水との筆談内容をまとめた『西遊手録』という史料があり、それによれば会見は計5回に及んでいます。内容をざっくり見てみましょう。

小宅「先生の名前は江戸にまで聞こえてきます。そんな儒学の大家にあえて光栄です。」

朱舜水「私は中国の難を避けて、あなた方の日本に住んでいる身。私はもともと実際に約に立つ学問もなく、したがって誇るべき名誉もありません。分に過ぎた愛顧を受けることは恥の限りです。」

小宅「私は江戸で学問に志してから何年も経過しております。けれども、未だ中国の大儒に会ったことがありません。そのために、野卑な学問に留まっています。願わくば、先生を江戸にお招きし、私は日夜親しく教えを受けたいのです。」

朱舜水「なるほど。ただ、私は幼年の頃はたしかに学問を修めましたが、その後は学問から離れて20年以上になります。それをあやまって儒学の大家などと言われるのは甚だ恥ずかしいことです。江戸には才知のすぐれた人がたくさんおられるので、私が行ってもおそらく無益でしょう。」

このように朱舜水は謙遜して招聘を固辞します。たしかに自分で述べているように、中国にいた頃は何度も政府からの招聘を断ったため、官僚としての実績がありません。自分は人に教えるほどの人物ではないと本当に謙遜していたのかもしれません。

それでも江戸にまで名声が伝わるほどの器の持ち主。小宅生順もすっかり朱舜水の魅力に心酔します。なんとしても水戸藩に招きたいと思った小宅は、光圀の学を好む姿勢、文教に対しての想い、兄の子を世子に立てたエピソードなどを熱心に語り、朱舜水も次第に光圀への興味を募らせていきました。かくして小宅は会談を終え、その任務を果たし、この年の11月江戸に帰りました。

小宅生順が朱舜水との筆談内容をまとめた『西遊手録』

門弟一同が江戸行きを支持

小宅の報告を聞いた光圀は、朱舜水の器量の大きさが噂以上だったことに満足します。その一方で、招聘を固辞していることに不安を覚えました。「やはり一筋縄ではいかんか……。」そう思う光圀でしたが、朱舜水を学問の師として招きたい思いは揺るがず、年が明けて1665(寛文5)年、正式に招聘状を出します。

長崎奉行所から招聘状を受け取った朱舜水は、まだ迷っていました。受けて江戸へ行くべきか? このまま長崎へ留まるべきか? そこでまず、安東省菴ら門弟たちに相談します。すると「光圀公は優れた人材を求め学問をたしなみ、とくに朱舜水先生を召されました。この求めをお断りするべきではありません」と門弟一同が述べました。加えて、長崎奉行やその監督藩のひとつである肥前小城藩までもが江戸行きを勧めたため、ついに朱舜水は招聘に応じることを決断しました。

報告を受けた光圀は大喜び。「我が師たる人物が来るぞ!」と大きな声で叫んだのでした。

6月下旬、朱舜水は7年住んだ長崎を後にします。まったく予想もしていなかった人生の扉が開き、胸中には困惑と期待が渦巻いています。「さぁ、江戸に旅立つとするか。その前に柳川藩に寄って安東省菴にお別れの挨拶をしなくては。彼の助けがなかったら、私はここまで生き延びることはできなかった」。そう思いながら、水郷柳川を目指すのでした。

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