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【朱舜水】大海を舞台に中国、日本、ベトナムを駆け巡る
海に出た復元されたジャンク船

今回は情報量メガ盛りですが、どうぞお付き合いください。朱舜水のスケールがとんでもないことがご理解いただけると思います。

招聘を再三固辞し、役人の怒りを買う

「文武全才第一」──儒学者で武芸にも深い造詣を持つ朱舜水は、ジリ貧の南明政権としてはぜひとも欲しい貴重な人材でした。そこで1645年朱舜水46歳のとき、南明は三顧の礼をもって彼を招聘します。

しかし、彼はすべて固辞。

皇族や官僚たちは相変わらず権力争いばかり。「国が滅んだのは、そもそもお前らが原因だ」。そうした怒りが胸中にあったに違いありません。

面子をつぶされた南明の役人は「人臣の礼なし」と怒り、朱舜水を捕縛しようとします。その危機を察知した彼は逃げ伸び、浙江省東端の舟山(現浙江省舟山市)まで行きます。

 “海賊”のような行動力を発揮!

舟山は、東シナ海に浮かぶ大小1300もの群島で成り立つ地。明朝が健在だったときは倭寇などの海賊を取り締まるため、「海禁」と呼ばれる鎖国政策が行われていましたが、明の衰退期には鄭芝竜のように密貿易で財を成す海商たちの船が行き交っていました。

遥かな海、そして異国を往来する船を見て、朱舜水は何を考えたでしょうか。
「今や大陸の大部分は清に蹂躙されている。かといって、頼みの南明もあの体たらく。家族とも別れ、陸の果てまで追い詰められてしまった。ならばいっそ、海の先に行ってやろうではないか」。そう思ったのかもしれません。

以降約15年間、朱舜水は大海を舞台に中国、日本、ベトナムを駆け巡ります。三角貿易を行って軍資金を稼いだり、江戸幕府に援軍を要請したりすることで「反清復明」を成就させようと考えました。長崎には7回も来訪。さらには「安南」(ベトナム)にも赴いています。

1645年(46歳)
・舟山→長崎(第1回)。日本が鎖国中だったため、ほとんど何もできず。その後、安南(ベトナム)へ

1646年(47歳)
・安南→舟山

1647年(48歳)
「日本乞師」(にほんきっし)のために長崎に来訪(第2回)。その後、舟山へ帰る
・王翊が四明山で義兵を挙げる

1649年(50歳)
・航海するも嵐に遭い、舟山に帰る
・10月、魯王が舟山に迎えられ拠点とする。朱舜水は軍費などを支援

1650年(51歳)
・魯王政権からも再三仕官を請われるがすべて固辞
・3月、王翊が魯王に再び謁見し、兵部右侍郎を授かる。朱舜水とも出会い、親交を結ぶ

1651年(52歳)
・舟山→安南
・8月、王翊が四明山で戦死
・9月、舟山が陥落。魯王はアモイの鄭成功をたよる

1652年(53歳)
・安南→長崎(第3回)→安南

1653年(54歳)
・7月、安南から長崎(第4回)へ渡り、入徳医院に寄宿。独立性易と同宿する
・その後、安南へ

1654年(55歳)
・安南→長崎(第5回)→安南
・病になり吐血が始まる
・8月、王翊が戦死していたことを知り祭る
『魯王勅書』が下るが、本人は安南にいたので知らない

1655年(56歳)~1656年(57歳)
・しばらく安南に滞在。ホイアンの日本人街で世話になっていたと思われる

1657年(58歳)
・1月、安南に日本船が着き、『魯王勅書』がもたらされる
・2月、「安南の役」に遭う
・『監国魯王にたてまつる謝恩の奏疏』2首をしたためる
・8月、王翊を祭る

1658年(59歳)
・8月、安南から長崎(第6回)へ渡り、安東省菴のことを初めて知る
・9月、王翊を祭る
・10月、アモイへ行く

1659年(60歳)
・春、アモイに次男 朱大咸が来訪し再会
・4月、鄭成功が北征を行う。朱舜水も大咸とともに従軍する
・6月、大咸が陣中で病死する。鄭成功が鎮江を攻略
・7月、南京攻略戦に大敗
・鄭成功が朱舜水に日本への援軍要請を依頼?
・「反清復明」はもはや難しいと悟り、長崎に渡来(第7回)

それにしても驚異的な行動力ですね。以下は舜水ゆかりの地を示した地図です。

彼が実際に訪問した地に紺色、ゆかりの地にえんじ色のピンを立てています。
スケールが巨大過ぎてもはや“海賊”です。
「Pirates of the Caribbean - He's a Pirate」を聴きながら読むといいかも (;^ω^)

巨万の富をもたらした海外交易

朱舜水は海外交易を行うことで軍資金を稼いだり、武器を調達して、南明を後方支援する道を選びました。現代と異なり、海を渡るのは命懸け。それでも貿易がもたらす富は巨大で、最低でも10倍の利益をもたらしました。以下は、当時の日中間で取引されていた主な交易品です。

【中国→日本】
・絹、羅、紗などの織物、生糸
・工芸品
・薬材、書画、印刷術、陶芸、水墨画などの大陸文化

【日本→中国】
・刀剣、槍、鎧
・硫黄
・銅、銀

東アジアを駆け巡ったジャンク船

朱舜水たちが当時乗っていた船は、「ジャンク(Junk)」と呼ばれる木造帆船でした。ガラクタを意味する「junk」と同じスペルですが、粗悪なわけではありません。中国語の「船(チュアン)」が色々な言語を介して最終的にスペイン語・ポルトガル語の「junco」に転訛し、それが語源と言われています。

航海技術、造船技術は10世紀以降に各段に進歩していました。日本への渡航も、舟山から順風を得られれば3日かからずに長崎に赴けたといいます。

香港ではジャンク船によるクルージングもあり、観光客に人気です。また、台湾では本格的に17世紀のジャンク船を復元させたプロジェクトがありました。「松浦史料博物館」(長崎県平戸市)に所蔵されていた台湾船の古絵図をもとに復元し、2010年に完成。全長29.5メートル、幅7.26メートル、メインマストの高さ28メートル、重量約300トン。「台湾成功号」と名付けられ、進水式が行われました(トップ画像)。台湾成功号は現在「1661台湾船園区」(台湾台南市)に展示されています。

平戸の古絵図をもとに復元されたジャンク船「台湾成功号」

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