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【徳川光圀】水戸藩第2代藩主に就任し、人材登用を推進!

妻の泰姫が死去し呆然となった徳川光圀でしたが、その2年半後には父・頼房まで急逝します。畏怖の存在だった父の喪失にゆっくり思いを馳せる暇もなく、慌ただしく水戸藩第2代藩主として就任する光圀。28万石の命運がのしかかる中、史書編纂と人材登用の夢に向けた舵取りを始めていきます。

大きな存在だった父・頼房の死

幼少期の光圀が正子(世継ぎ)に決まってからは容赦ないスパルタ教育を行った父・頼房。江戸幕府でも重職にあり、還暦を前にしても衰え知らずの頼房は、光圀にとって変わらず畏怖の念を抱く存在でした。そんな頼房が水戸城にて病に倒れたと聞き、驚く光圀。水戸藩は唯一参勤交代をせず江戸定府の任を負っていましたが、このときの頼房は数少ない帰藩の折でした。

「あの父のことだ。すぐに恢復するはずだ」と光圀は思っていましたが、病状は悪化するばかり。たまらず江戸から水戸へ見舞いに参じたときには、あまりの衰弱ぶりに驚きます。そして、光圀たちが看取る中、1661(寛文元)年7月死去。享年59歳でした。

頼房は新しく作られた墓地、瑞龍山(茨城県常陸太田市)に埋葬されました。ここは日本では珍しい儒教式の墓地で、後に歴代藩主とその正室が埋葬されていきます。光圀と泰姫は当然ここに眠っていますが、唯一の例外として朱舜水の墓もあります。

光圀の父で水戸藩初代藩主の徳川頼房公像。水戸一高と水戸三高の間に通る「水戸学の道」に立っている。

長年の苦しみに決着をつけ、第2代藩主に就任

1661(寛文元)年8月初め、江戸の水戸藩小石川邸に戻った光圀のもとに、幕府から報せが入ります。8月19日に幕府の上使が来訪するとのこと。ここで正式に次の水戸藩主に任命されるわけです。

光圀に関する逸話を集大成した『桃源遺事』(とうげんいじ)によれば、光圀はこの前日である18日に兄・頼重を含めた兄弟を集め、「兄の長男・松千代(後の徳川綱方)を養子に欲しい。これが叶えられなければ、自分は家督相続を断り、遁世するつもりである」と述べたそうです。

兄弟一同が仰天したのは言うまでもありません。つまりは松千代を正子として、次の第3代藩主にすると言っているのと同じだからです。普通に考えれば、泰姫の次の正室を娶って子を成し、その子を正子とするものです。兄・頼重としても徳川御三家である水戸藩の後継問題に、軽々しく返事ができるはずもありません。

それでも光圀の意志は固く、頼重も最終的には承諾しました。兄を差し置いて正子に選ばれたことに長年苦しんでいた光圀でしたが、兄の血筋に藩主を継がせていくことで苦しみに決着をつけたのでした。

さらに同時に、弟である頼元に額田藩2万石、頼隆に保内藩2万石を分与することも伝えます。江戸時代は血で血で洗う「お家騒動」によって、取り潰しになった藩はいくつもありました。「それは絶対に避けねばならない」、水戸藩の石高が減ってしまってもなお弟たちへ分与することは、光圀の強い決意と長期的なビジョンによるものだったのです。

そして8月19日、幕府の上使を受け、徳川光圀は水戸藩28万石の第2代藩主に就任しました。

兄弟会議で約束された事案は、数年後に実施されました。兄・頼重の長男である綱方(つなかた)と次男である綱條(つなえだ)は光圀の養子となり、逆に光圀の隠し子で頼重が高松藩で育てていた松平頼常(よりつね)は、そのまま頼重の養子となります。ちなみに後年の話ですが、綱方は病気で早世したため、綱條が水戸藩第3代藩主になり、頼常が高松藩第2代藩主になります。

藩主就任時の徳川光圀(立原杏所 筆)

明国の遺臣登用を思いつく

光圀は藩主に就任してからすぐに内政に力を入れます。その一つとして、新たに「笠原水道」を整備し領民の飲み水を確保しました。また、当時乱立していた怪しげな寺院を千以上も淘汰し、寺社改革を断行しています。仏教に厳しい政策をとった光圀でしたが弾圧が目的ではなく、由緒ある寺院を盛り立てたいという思いはありました。この思いは後年、東皐心越を招いて祇園寺を開山することにつながっていきます。

そして、文化レベルの向上、史書編纂のための人材登用が急務でした。折しも、将軍家はもとより諸大名による人材獲得競争は激しさを増していました。戦国時代ならば武力がものをいいますが、天下泰平の時代であれば教育力、文化力こそが要になります。有能な人材たちが次々に他藩に引き抜かれていく情報を聞き、光圀は焦りを覚えていました。

そんな中、当時の日本人が考えつかないことを光圀は思いつきます。「そうだ! 明国の遺臣を師に招くというのはどうだろう? 中国は儒教の本場であるし、自分は中国の史書を読むことで人生を助けられた。私の師にふさわしいではないか!」と。

もちろん、これが荒唐無稽なことは光圀も知っています。いくら光圀が徳川御三家の権力者とはいえ、当時の日本は鎖国の真っただ中。長崎が例外的に開かれていた程度です。加えて、明は滅亡する際に「日本乞師」(にほんきっし)と呼ばれる江戸幕府への救援要請を行いましたが、幕府は清朝との関係を考慮して救援を断った経緯もあります。明人が幕府関係者に反感を持っていることも想像できました。

「それでもやってみよう。もし成功すれば、他藩をはるかに凌駕できるぞ!」。思い立った光圀は、長崎における唐人関連の情報を集めさせます。すると、儒学に明るい聡明な人材として「朱舜水」なる人物がいることが判明したのです。

朱舜水スカウトのため、家臣を長崎に派遣

江戸幕府の修史事業として林羅山、林鵞峯父子を中心に編纂された『本朝通鑑』。そのうち林鵞峯がつけていた日記『國史館日録』の中に以下の記述があります。

水戸の義公(徳川光圀)、朱舜水先生の名声を聞き、ひそかに老中酒井忠清に連絡した。先生を招く意思があったからである。そして儒臣・小宅生順(おやけ せいじゅん)をして先生に会見させたのである。

幕府の重臣に根回しを済ませておいてから、家臣を長崎に派遣。光圀が権力者であるからというのもありますが、本当に有能な藩主です。そして、ついに光圀が朱舜水にコンタクトを取るときがやってきました。

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