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【徳川光圀と朱舜水】運命の対面

1665(寛文5)年、柳川を後にした朱舜水はひたすら東を目指し、7月11日に江戸の水戸藩小石川邸に着きます。ただ、旅の疲れと暑さで寝込んでしまい、回復を待って徳川光圀と対面することになりました。そして7月18日、いよいよ二人は対面します。

お互いの器を知り、出会いを喜ぶ

光圀の前に、明朝文人の装いをした朱舜水が姿を現しました。光圀は中国の文献を読み漁っていたので、大陸の人々がどのような恰好をしていたかは知っていましたが、実際に見るのはこれが初めて。貴人が用いる紗帽(さぼう)をかぶり、さらに文人が身に付ける長い爪に少し驚きました。

一方、朱舜水から見た光圀は、凛として意思の強い顔立ちをしていました。それでいて威圧感がないことに驚き、かつ安心しました。

運命的な対面を果たした二人。このとき光圀38歳、朱舜水66歳。お互い言葉は通じませんが、漢文でコミュニケーションを取り始めます。

「朱舜水先生、長旅ご苦労様です。水戸藩を統べる徳川光圀と申します。ぜひ先生が培ってきた幅広い知見をもって、我が藩の発展にご助力いただきたい」

「明より渡来した朱舜水と申します。亡国の徒として貴国に留まることを許された身。余生を静かに過ごすつもりでいましたが、賢を好み、学をたしなまれる君子に会いたいと願い、参りました」

さっそく学問の話題に華を咲かせる二人。江戸幕府は朱子学を中心とした思想教育を奨励していましたが、朱舜水は空論を排し、実学を尊ぶ「陽明学」も重視するよう説きます。学問は社会問題を改革するためにあるという考え方です。その応用範囲は幅広く、祭器、養蚕、種痘の処方にまで及びました。

「朱舜水先生が一人いるだけで産業が興り、都市がひとつ造れてしまう」と光圀は驚嘆しました。

一方の朱舜水も光圀の藩主としての非凡な器に感嘆していました。後に安東省菴に送った手紙にこう書いています。

「光圀公は礼儀正しく、大変優しい方だ。言葉はうちとけて和やかに話すことができた。古今稀な賢明、謙虚な方である。」

これは光圀に対する最高の賞賛であり、最大の敬愛でした。思えば、明国の為政者たちは人民のことなど顧みず己のことばかり考え、亡国の末路を辿ることになりました。また、監国魯王には敬愛の思いがありましたが、残念ながら彼には実権がなく、何一つ実現できずに力尽きました。

これまでの苦労を振り返りながら考えてみると、光圀は人臣のことをよく考え、それでいて謙虚であり、さらに権力も保持しているという、まさに「パーフェクト賢君」でした。朱舜水は異国の日本において、はじめて安住の場所を得た思いがしました。

水戸藩駒込邸に住居も与えられ、講義を始めていきます。「残りの人生を使って、私が持っているすべてを水戸藩の人々に伝えていこう」と決心するのでした。

「舜水」の号を名乗る

ところで、「舜水」というのは名前ではなく、号(雅号)です。文人らが本名の他に名乗る風雅な名のことで、中国から日本にも伝わりました。夏目漱石(本名:金之助)や森鴎外(本名:林太郎)などの号が有名です。

彼が「舜水」の号を名乗るようになったのは、実は光圀と対面したこの時期から。これは故郷を流れる「余姚江」の別名です。もう二度と戻ることはない故郷ですが、思いを刻み付けるために名乗ったのかもしれません。

余談ですが、朱舜水といえば「徳川光圀に中華麺(ラーメン)を献上した」というエピソードがとても有名です。これに関しては以下をお読みください。

さらには、「コーヒーまで献上していたかもしれない」とサザコーヒー鈴木誉志男会長は自説を述べています。こちらも合わせてどうぞ!

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