1644年、朱舜水45歳のときに明が滅亡し、当たり前だった日常がなくなってしまいます。その絶望感は想像を絶するものだったに違いありません。生き残った明朝皇族は華中・華南で亡命政権「南明」(なんみん)を樹立し、「反清復明」を掲げて清に抵抗します。朱舜水もこの抗戦を支援していきますが、彼の動きはかなりスケールが大きいので次回から述べることにして、ここでは南明のキーマン二人にスポットを当てます。
鄭成功、「反清復明」の英雄的存在になる
古今東西よくあることですが、抵抗勢力なのに一致団結せず内部抗争に明け暮れ、結果的に自滅する残念なパターンがあります。南明がまさにそれでした。隆武帝(朱聿鍵)と魯王(朱以海)の二勢力が対立。魯王は清に敗走したため、隆武帝が主流になります。この隆武帝を支援したのが、海商上がりの武将 鄭芝龍(てい しりゅう)でした。
鄭芝龍はかつて日本との貿易で長崎平戸に住み、日本人女性 田川マツと結婚。そして生まれたのが鄭成功(てい せいこう)。後に「国姓爺」の称号で呼ばれ、無数の文芸作品に登場する英雄的人物です。
貿易で巨万の富を得ていた鄭芝龍は、ジリ貧だった南明政権から援助を頼まれます。そんな中、鄭成功は父の紹介により隆武帝の謁見を賜ります。帝は眉目秀麗で頼もしげな成功のことを気に入り、「そなたに国姓の『朱』を賜ろう。以後は朱成功と名乗るがよい」と告げました。それではいかにも畏れ多いと、鄭成功は決して朱姓を使わず、鄭姓を名乗り続けましたが、以後人からは「国姓を賜った大旦那」という意味で「国姓爺」と呼ばれるようになります。
1646年、福州の拠点が清に攻撃され隆武帝は殺されます。鄭芝龍は抵抗運動を諦め降伏。鄭成功は泣いて父の投降を止めましたが、翻意することなく父子は今生の別れを告げます。以後、鄭成功はアモイ(現福建省アモイ市)を拠点に永暦帝を擁立し、「反清復明」の主流として台頭します。
鄭成功は1659年4月に北征を開始。捲土重来の勢いで鎮江を攻略し、南京まで迫り清朝を震え上がらせます。しかし、あと一歩のところで清軍の奇襲を喰らい大敗。永暦帝はビルマまで逃亡するものの、1662年4月に清軍に拘束されて処刑されます。享年40歳。これにより南明は滅亡してしまいました。
中国大陸がいよいよ清朝に制圧されたため、鄭成功は台湾に拠点を作り勢力を立て直すことにします。ただ、当時の台湾はオランダ東インド会社が占拠していたため、まずはこれを一掃し、1662年に鄭氏政権を樹立しました。しかし、英雄・鄭成功の命運もここで尽き、同年5月熱病にかかり死去。享年39歳。「反清復明」の悲願を果たす事なくこの世を去りました。その後、台湾の鄭氏政権は孫の代まで続きますが、1683年に清軍によって制圧され、抵抗勢力はついに全滅します。
なお、近松門左衛門は鄭成功をモデルにして、人形浄瑠璃『国性爺合戦』(※注1)を書き、1715年大阪で初演。これが大変な人気を呼び、後に歌舞伎化もされました。当時は鎖国下で海外の情報がほとんどありませんでしたが、日本人の血をひく主人公が中国大陸に渡って大活躍するという壮大な物語に、江戸時代の大衆は熱狂しました。
注1…本来は「国姓爺」ですが、物語の結末が史実と大幅に異なるものになったため、初演直前に「国性爺」に直したといわれています。現代で言うところの、「本作品はフィクションであり、実在の人物や団体とは関係ありません」に相当する手法かもしれません。
「反清復明」非主流の監国魯王
監国(摂政)という地位のため、監国魯王とも呼ばれた朱以海。隆武帝との勢力争いに敗れ、清からも攻撃されてひたすら敗走を続け、英雄的存在の鄭成功とは比較にならないほどマイナーでパッとしません。それでも、朱舜水にとっては双方信頼しあった間柄であり、重要な人物でした。
日本へ亡命した後も、『魯王勅書』を肌身離さず持っていたことからも忠誠心の高さがうかがえます。
魯王は舟山(現浙江省舟山市)に逃れたものの清軍に攻撃され、1651年にはアモイを拠点にしていた鄭成功の庇護下に入ります。ただ、鄭成功は永暦帝を擁立していたので、良い関係性ではありませんでした。1662年11月、喘息にかかって金門(現台湾金門島)で死去。享年44歳。
1662年は4月に永暦帝、6月に鄭成功、そして11月に魯王と、重要人物が相次いで死去するという、名実ともに南明の命運が尽きた年でした。