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徳川光圀と朱舜水 プロローグ

1665(寛文5)年7月の江戸で、とある日本人と中国人との出会いがありました。海外渡航の手段が船しかなく、しかも当時の日本は鎖国中。異国人と出会う確率が奇跡的な時代のことです。

ふたりの名は水戸藩第2代藩主徳川光圀と明国から渡来した儒学者朱舜水。このとき光圀38歳、朱舜水66歳。親子ほど歳の離れた二人でしたが、光圀は学問の師として朱舜水を水戸藩に招聘。以来、水戸藩は儒学を基礎とした水戸学を発展させ、後にその教えは日本各地にまで影響を与えていきます

今から350年以上前に育まれた日中交流。「茨城×中国」をテーマに、中国人と日本人のスタッフで制作している『LI』としては、このふたりのエピソードは見逃せません。
そして、知れば知るほど驚きと感動が募るばかりです。

諸国漫遊のお爺さんではなく、若い頃の徳川光圀(立原杏所 筆)

せっかくだから、もっと知られてほしい!

ただ実際のところ、地元である水戸でもふたりのエピソードはそれほど有名ではありません。
そもそも徳川光圀でさえ、「水戸黄門」として諸国漫遊した話(もちろんフィクション)以外はあまり知られていません。

「水戸徳川家と朱舜水の末裔が現在まで存在し、しかも交流を続けている!」という仰天のエピソードもあるのですが、一般的な知名度は皆無です。もったいないですよね。地域活性化やインバウンド、日中友好交流など無限の可能性がありそうなのに……。

そこで『LI』では、徳川光圀と朱舜水に関連した記事を不定期に上げて行きます。日中交流の巨大な先人の足跡を、ひとりでも多くの人に知ってもらえれば幸いです。そして、何かの活動につながって行くことを願っています。

水戸藩どころか日本の思想史に巨大な影響を与えた朱舜水

朱舜水の生涯

中国編

日本編

徳川光圀の生涯

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※本連載における元号について
本連載では西暦を用い、明朝が舞台のときは中国(明朝)の元号、日本が舞台のときは日本の元号も併記します。なお、明朝滅亡後の中国は清朝、南明、監国魯王政権の元号が同時に存在していて混乱をきたすため、西暦のみ表記します。

※徳川光圀の「圀」の字について
徳川光圀と「圀」の漢字を使うようになったのは、実は水戸藩主を退いて隠居してからのこと。それまでは徳川光国と「国」の漢字を使っていました。ただ本連載では教科書、辞典などと同様に「徳川光圀」で通します。

朱舜水ゆかりの地

朱舜水ゆかりの地をまとめた地図です。彼が実際に訪問した地に紺色、ゆかりの地にえんじ色のピンを立てています。
中国 浙江省、上海市、江蘇省、福建省。
台湾 台南市、金門島。
日本 福岡県、長崎県、東京都、神奈川県、茨城県。
ベトナム ホイアン、フエ。
東アジアをまたがる壮大な地図になってしまいました。彼は儒学者というよりもはや“海賊”ですね。
私たちも他県、いずれは中国、台湾、ベトナムへの取材ができたらと願っています。

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